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「民主圧勝」「300議席以上獲得」という状況は選挙前から多くのメディアが予測していた通りで、この結果に驚いた人はいないと思います。とはいえ、ここまで一方的な選挙になってしまったのは「付和雷同」という国民性もあるでしょう。空気を読み、流れに乗った人たちが圧倒的に多かったというのが個人的な感想です。
圧勝した民主党のマニフェストを見ても根拠を逸した理想論だったり、CO2排出削減と高速道路の無料化のように相容れない政策が並んでいたり、マトモな理解力がある人間が見ればこんないい加減で出鱈目な政策を掲げるような程度の低い政党を勝たせようとは思わないでしょう。
が、自公連立政権もまたそれに劣らぬ出鱈目ぶりで国政を担ってきましたから、むかし流行った「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか」みたいな
究極の選択 を迫られた選挙だったといえるでしょう。そこで長年ぬるま湯に浸かってきた彼らにお灸を据えてやろうという空気になったようにも見えます。
中には民主党に期待する人もいるようですが、あの出鱈目なマニフェストを見る限り、それが裏切られるのはほぼ間違いないと思います。特に彼らは官僚たちのコントロールを簡単に考え過ぎています。私も業務で役人とはさんざんやり合ってきましたが、彼らが考えるほど役所は簡単に動きませんし、役人の考え方を変えさせることも容易ではありません。
小泉氏が郵政大臣を務めたときには相当なフラストレーションを蓄積させたと思います。彼はその膨大なフラストレーションをエネルギーとして上手く転換させたのでしょう。彼は元より郵政民営化論者でしたが、それに個人的な恨みも加わり、同省の民営化を成功させました。が、あれはかなり例外的なパターンだったといって良いでしょう。
田中眞紀子氏が外務省から、小池百合子氏が防衛省からイビリ出されたように、「役人あしらい」のスキルが乏しい人たちは彼らとマトモにやり会うことすら覚束ないものです。その辺を簡単に考えている民主党の連中は何故日本が「官僚国家」と言われているか、これから嫌というほど思い知ることになるでしょう。
アメリカに目を転じれば、あれだけ世界中から期待されて就任したオバマ大統領は支持率を下げ続け、いまでは50%を切るところまで落ちてきています。もはや大統領としての評価は「並」というべきレベルに堕したといって良いでしょう。日本のメディアはあれだけ無用に持ち上げた手前、悪いハナシは伝えたくないのかも知れません。が、彼が政策の柱として掲げた皆保険制度を軸とした医療制度改革も延期が決まり、雇用情勢も一向に改善されず、「期待外れ」という評価は日増しに強まっています。
ま、彼も非核化政策など日本人にもウケるトピックを提供したり色々やっていますから、日本での評価はそれほど下がってはいないようです。が、遠い未来に向けた理想論では格好の良いことを言っても、いま直面している諸問題に有効な手立てが打てなければ当の国民からは「何をやっているんだ」と叱咤されます。理想論は立派でも現実の政策は彼も「並」の大統領でしかなく、期待が大きかっただけに失望も大きいといったところでしょうか。
今回の総選挙で民主党の勝ち方を見ていると、アメリカの新政権に対する期待感ほど積極的な意志が働いていたようには感じませんでした。が、メディアは街頭インタビューなどで民主党政権に期待する声を故意に多く拾っている印象で、そうした空気を選挙前から創り、アメリカのそれに準えようとしていたようにも見えました。しかし、これもまた「山高ければ谷深し」で、無用に大きな期待を抱き過ぎると失望を大きくするだけです。
多くの日本国民が望んでいるように拮抗する二つの大きな勢力が競い合うようになれば、少しはマシな方向へ進む可能性もあるでしょう。また、そうしていつでも政権が交代できる状況がつくられれば幾らか民意も反映しやすくなるかも知れません。そういう意味では今回の選挙結果も注目すべき点はあるといえます。
しかしながら、有能な政治家がもっともっとたくさん生まれてこなければ今回のような「究極の選択」的な状況が続くことになるでしょう。こうした状況を打開するにはもっと能力のある人間が政治家になりやすい、そういう世の中に根本的な仕組みを変えていく必要があります。
だいたい、私の経験からして悪い状況へ陥ったとき、「原因をつくったのはアイツだ」とか、「アイツが悪い」とか、そういうことをギャーギャー喚き立てる人間に限って状況を改善するようなリーダーシップを発揮できたためしがありません。
既に起こってしまった現実を冷静に受け止め、「誰がやったか」ではなく「どうしてそうなってしまったか」を徹底的に分析し、そこから立ち直るためにはどうしたら良いかを考え、それを実行していくことに全精力を傾けられる人が事態を収拾させるリーダーシップを発揮したという例なら身近に何度か見てきていますが。
こうした有能な人間を政治家として生み育てていくにはどのような社会にしていけば良いのかという根本的な部分を深く考えず議論もせず、二大政党制にすれば良くなるだろうと期待するだけでは何も好転しないでしょう。無能な人間が無能な政党に属して無能な候補となり、選挙で「究極の選択」を国民に求めるだけのループにはまり、いつ現れるとも知れない有能な政治家に夢を託すというのでは虚し過ぎます。
そもそも、政治が良くならないのは政治家だけのせいではありません。その政治家に投票した選挙民の責任でもありますし、もっと根元を辿れば有能な政治家を生み育てることのできない社会全体の責任と考えるべきなんですね。政治家に全ての責任を被せて「オマエが悪い」などと糾弾して何かを成し遂げた気になっている国民から有能な政治家が生まれることはないでしょう。
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私が趣味として本格的に写真を撮り始めたばかりでまだ手探り状態だった頃、撮影データを残しておくのはコツをつかむ近道だと思っていました。最初は白紙のメモ帳を持って歩いたのですが、記入すべき項目が乱雑になってしまって後で見づらかったので、絞りやシャッタースピードなどの項目を罫線で区切った用紙をワープロで作成しました。当時はワープロといってもインクリボンか感熱紙を用いるサーマルプリンタを備えた専用機で、パソコンなどは一部のマニアしか使っていない時代でした。
インクリボンでは高く付きますが、感熱紙では鉛筆で書いたり消しゴムで消したりしにくかったため、感熱紙に印刷したものを普通紙コピーで印刷するといった方法で大量に用意し、撮影する度にメモを取るという繰り返しで基本を勉強したものです。
現在はこうした手間をかけることなく、絞りやシャッタースピード、露出モードや補正値等々、撮影データがシッカリと画像ファイルに記録されます。データが登録されているレンズならズームで焦点距離が何ミリかということまで記録されるんですね。昔みたいに一々メモを取っておかなくても良いというのは大助かりです。
ま、便利になればなったでプロセスがどんどん単純になる分だけ趣味的な拘りの部分が薄らいでしまうでしょうし、そもそも面倒がかからないという緩い坂を上って一つの山を越えても、その達成感はあまり大きなものにならなかったりするでしょう。そういう精神的な部分では便利になることでデメリットに繋がることもあると思います。
こうして撮った写真をプリントしてみても、その画質の良さに圧倒されます。ま、近年はコンパクトデジカメもかなりの高解像度になっていますし、キレイに見せるための色々な補正もなされていますから、高画質を得ること自体は特別なことではないかも知れません。が、前回ご覧頂いた写真のようにあれほど薄暗い場所でもノイズがあまり気にならない好結果が得られたのは、諸々の技術的な進歩だけでなく、イメージセンサの大きさという物理的な前提条件の優位性もあるのではないかと思います。
もちろん、フィルムにはフィルムの良さもありますが、解像度や感度などの面ではもはや比較にならない差が付いてしまったというべきでしょう。中感度の35mm判フィルムではキャビネサイズ(120×165mm)でも粒子が気になり始める感じで、六ツ切(8×10インチ:203×254mm)まで伸ばそうと思うとカラーネガならコダックのエクター25(その名の通りISO25の低感度・超極微粒子フィルム)が欲しくなるところです。六ツ切以上に焼くつもりで高解像度を望むようなら35mm判では力不足で、ブローニーフィルムを使う中判カメラの出番になるところです。
味わいとか感覚的な部分は別にすると、このクラスのデジタル一眼レフカメラの総合的な画質は中判のフィルムカメラをも超えてしまったといって良いと思います。ま、私の家にあるプリンタではA4までしか対応できませんので、EOS5D2の解像度を最大限に生かせるプリントはできませんけど。
しかしですね、その重さも中判カメラ並みになっているんですよね。私の場合、今回はボディと一緒に買ったEF24-105mm F4L IS USMという手ぶれ補正付ズームレンズをメインに使いましたが、ボディと合わせて実測でほぼ1.7kg(バッテリーなどを含む)にもなってしまうんですね。ボディだけならフィルム時代にメインで使っていたEOS1Nとほぼ同じですが(カタログ値を見ると100g軽くなっているハズですが、実測ではほぼ同じ重さでした)、件のレンズがまた結構な重さですから、両方合わせるとやはりかなりの重量に感じます。
私も学生時代のような体力はありませんし、あの頃のような集中力もなくなっていますから、この重さで長時間の撮影は少々シンドイものがあります。昔は重い機材を携えて1日中歩き回っても平気でしたが、いまはそこまでの元気もありません。特に今回はひどい渋滞にハマって12時間近くもクルマを運転した直後でしたから尚更かも知れませんが。
私が持っているカメラの中で一番重いのはマミヤ645PROにマミヤセコール55-110mmズームレンズ、プリズムファインダー、ワインダーグリップを付けたもので約2.5kgになります。EOS5D2に標準ズームを付けるとこれに次ぐ重さになってしまうわけですね。これまで2番目に重かったハッセルブラッド★503CX+カールツァイス・プラナー CB 80mm F2.8 T*より100g近く重いのですから、撮像素子のサイズとしては35mm判でも、実際の運用上は中判カメラ並みに体力を使うというわけです。
こんなにクソ重いカメラですが、ネットの書き込みなどを見ていると「ミラーショックが大きい」という人がチラホラいるのですから、これには少々驚きます。もちろん、ミラーの重量だけがミラーショックの大きさの要件とはなりませんが、カメラの総重量が軽く、ミラーの重量が重いほど条件は悪くなります。そういう意味ではかなりの重量があるEOS5D2の条件はむしろ良いハズなんですね。
私はまだフィルムカメラしか持っていなかった頃、旅行や出張で荷物を減らしたいと思ったらEOS kissⅢにタムロンの28-200mmズームを付けたものを持って行きました。その状態でたかだか950g弱、純正の標準ズームなら900gをかなり下回っていたと思います。あの軽さでも普通に35mm判フィルムを使うフルサイズの一眼レフカメラですから、当然フルサイズのミラーが動いていたわけです。しかし、当時EOS kissシリーズを評して「ミラーショックが大きい」などと文句を言っていた人はいなかったと思います。
メーカー純正の標準ズームを付けた状態であのEOS kissⅢの倍くらいの重さになるEOS5D2のミラーショックが大きいと感じるのは、要するにAPSサイズのデジタル一眼で一眼レフカメラを初体験した人たちなのでしょう。確かにアレはミラーが小さい分だけミラーショックも小さく、それしか基準がない人が評価すればEOS5D2のミラーショックが大きいとされてしまうのは仕方ないことでしょう。
中型一眼レフになると35mm判の2.7倍(セミ判:6×4.5cm判)とか3.6倍(6×6cm判)とか4.5倍(6×7cm判)とか、それくらい巨大なミラーが動きます。私が使っている状態のハッセルブラッドなどEOS5D2より100g近く軽くて3.6倍も大きいミラーが動くわけですから、EOS5D2ごときで(しかも手ぶれ補正機能付きのレンズが沢山ラインナップされている今日にあって)「ミラーショックが大きい」などと騒いでいる神経質な彼らには中型一眼レフの手持ち撮影などできないでしょう。
35mm判と6×6cm判のミラーの比較 右のEOS5D2にセット販売されている標準ズームを装着すると 左のハッセルブラッド503CX+カールツァイス・プラナー80mmより 約100g重くなりますが、ご覧のようにレフミラーのサイズは ずっと小さいのがお解りになると思います。 ハッセルブラッドのミラーはクイックリターンしないので シャッターを切ったときは片道分だけの振動になりますが、 いずれにしても撮影結果に影響するのはその分の振動だけです。 カメラの性能にも隔世の感を抱きましたが、それを使う人たちの反応を見ても隔世の感があります。ま、こういうことを言うのは私もオッサンになった証拠かも知れませんが。
(おしまい)
今年のお盆休みには神戸まで遊びに行きまして、異人館の写真などを撮ってきました。ま、色々と蘊蓄を垂れている割に写真の腕前は大したことがないので、そのときの写真を大々的に載せるつもりもありませんが、今年の6月に購入したEOS 5D MarkⅡ(以下EOS5D2)のインプレッションをザックリ書いてみようと思います。
とは言いましても、このEOS5D2は私にとって初めてのデジタル一眼レフカメラです。他メーカーのフルサイズ機も性能的には大差なくても、私は試したことがありません。また、先代のEOS5Dをはじめとしてキヤノンの他のモデルも店頭のデモ機を触った程度です。なので、EOS5D2固有の感想というよりは、このグレードのデジタル一眼全般あるいはキヤノンのデジタル一眼全般に通じる総論的な感じになっている部分もあると思います。その辺を含みおいて頂きたいということを初めにお断りしておきます。
まず、カメラとしての基本操作、とりわけデジタルであるかフィルムであるかに関わらない部分についてはフィルム時代のEOSシリーズと大きな違いは感じませんでした。フィルム時代のEOSシリーズは最上級機のEOS1などと中級以下とでインターフェイスが若干異なり、前者は電源スイッチがボディ背面の下部にあってモード切替は左肩にあるプッシュボタンを用いていたのに対し、後者は電源スイッチを兼ねたモードダイヤルが左肩に乗っているという格好でした。
EOS5D2は電源スイッチの位置がフィルム時代のEOS1と同じで、それとは別にモードダイヤルが左肩に乗っているという点では両者のアイノコといった感じです。が、モードダイヤルには「ポートレートモード」だの「風景モード」だの、初心者向けのモードがなくなっており、その分だけハイアマチュアを(あるいはプロも?)意識したつくりになっていると言って良いでしょう。個人的にも子供騙しの機能とそれを示すアイコンがなくなったのは望ましいところです。
背面の液晶モニタは画素を感じさせないくらい非常に解像度が高く、その割に撮影した画像を切り替えるレスポンスもストレスを感じるほど遅くなく、個人的には充分に納得のいくスピードが確保できていると思います。もちろん、バックライトを備えた液晶モニタですから屋外で直射日光を浴びるとさすがに見難くなります。が、そういう条件の悪いところでなければコントラストも明るさも適切で、先代のような解像度の低さなど気になっていた部分は完全に払拭された印象です。
私が神戸を訪れた当日は非常に気温が高く、クルマの外気温度計は36℃を示していました。そんな中で2時間くらい休憩なしで写真を撮り続けていましたので、ハンカチもビショビショになるほど汗をかき、カメラも汗で少し濡らしてしまうことになりました。幸い、EOS5D2もレンズも比較的簡易ながら防塵防滴構造になっていますので、気兼ねなく使えたのは良かったと思います。
フィルム時代、業務でやむを得ず小雨の中で傘を差しながら撮影を敢行したとき、注意が足りずにカメラを濡らして電気系をダメにしてしまったという苦い経験が私にはあります。EOS5D2の防滴仕様はEOS1シリーズに及ばないレベルではありますが、そうした仕様になっていないよりは安心して使えます。
性能面で特に関心したのは、イメージセンサの感度の高さです。フィルム時代は画質をあまり犠牲にしたくないと思うとISO400くらいが良いところで、800以上になると粒子の荒れが気になりました。が、このEOS5D2はISO3200でもノイズはかなり抑えられており、よほどシビアな結果を求めなければ充分に実用域といえるレベルに達していると感じました。
ISO感度:3200 絞り:解放(F4) シャッター速度:0.8s この写真は
王子動物園 にある
旧ハンター邸 の浴室になります。床のタイル張りが見事だったので撮っておきたいと思ったのですが、AFではピントも合わせられないくらいの薄暗さだったんですね。実際に見た目の印象では下の写真くらいの暗さでした。
ISO感度:3200 絞り:解放(F4) シャッター速度:1/20 一応ストロボも持って行ったのですが、相手はタイルです。ストロボ光を反射して私が望むような自然な絵にはならないと判断し、自然光だけで撮ることにしました。なので、AF補助光もなく、マニュアルでピント合わせしようにも暗くてピントの山がつかめず、仕方ないので目測によるピント合わせを敢行しました。要するに、被写体までの距離を適当に見積もって、レンズの距離目盛りをそれに合わせるという方法です。
こういうとき、デジカメはその場で結果を確認しながら何度でもリトライできるので便利です。また、レンズにも手ぶれ補正が付いていますから、従来から培ってきたブレを小さく抑える技術と合わせ、0.8秒という低速シャッターでも気になるほどのブレボケは見られない程度に捕らえることができました。ま、構図やら何やらはさておき、あの素晴らしいタイルを写真に納めることができたのは何よりだったと思います。
これがフィルム時代だったら8~32倍くらい感度が低いモノを使っていたでしょうから、三脚なしではブレブレで何が写っているのか解らないような写真になっていたでしょう(フィルムによっては相反則不軌が出るものもあるでしょう)し、その場で結果を確認できるわけでもありませんから、目測によるピント合わせもまぐれ当たりに期待するしかなかったでしょう。
(
つづく )
元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏と国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が一昨年のノーベル平和賞を受賞したのはご存じの通りです。が、アル・ゴア氏の『不都合な真実』という映画や書籍の中身とIPCCの評価報告書の中身は大きく食い違う点がいくつもあります。そうしたことが問題視され、イギリス高等法院から『不都合な真実』を教材として利用する場合は、注釈を加えるよう指示が出されたのは
以前 にも取り上げた通りです。
ゴア氏の説く地球温暖化脅威論とIPCCのそれとは数値や理論に整合していない部分が何ヶ所もあるにも拘わらず、その両者が同時にノーベル平和賞を受賞したということは、彼等が選考された際に地球温暖化を巡る科学的な検討は一切成されず、全て政治的な主観に基づいていたということを示します。
ノーベル平和賞はノルウェー国会に選任された委員によって選考されますが、その委員は多くが元国会議員などの識者とされており、科学的な認識について専門家とはいえない人たちによって与えられる賞ということです。政治的な意味はあっても科学的な意義は全く付与されません。この賞が授与されたことで地球温暖化が人為的であるとする政治的なコンセンサスはより強化されたかも知れませんが、事実関係の科学的な考察に何ら影響を与えるものでないのは言うまでもありません。
イギリス高等法院が件の訴訟を受けて基準にしたIPCCの評価報告書も当然のことながら事実を正しく伝えている保証などありません。現に、彼等はこれまで4度に渡ってこの評価報告書を出していますが、最新版が出される度に内容も微妙に変化しています。
特に、
第3次評価報告書に掲載され、第4次評価報告書では削除された 俗にいう
「ホッケースティック曲線」の問題 は、彼等の編纂作業が如何にいい加減で恣意的なものであるかを物語っています。また、こうした疑わしいデータが看過された以上、「何千人もの科学者の査読を受けているこの報告書は信頼できる」などという主張で権威を高めようと思っても全く通りません。
追記:ホッケースティック曲線はIPCCの第4次評価報告書でもフルレポートには残されていました。が、従前からその信憑性は疑われており、COP15を前にしてその証拠となるようなメールやファイルが暴露されるクライメートゲート事件に発展しました。詳しくはコチラ このケースは特別だったとしても、彼等は評価報告書の内容を少なからず書き換えてきたのは揺るぎない事実です。その主な理由の一つとして「気候モデルやコンピュータの性能が向上したから」と説明されるものがあります。これは専ら将来の予測にかかる部分になりますが、従前のシミュレーション結果が何度も修正されてきたという事実は、裏を返せば現在のシミュレーション結果も将来修正される可能性があると理解すべきで、これを盲信するのは非常に危険だということになります。実際、最新版による予測も現実とは大きく乖離していますし。
最近7年の地球の平均気温とIPCCの予測の差 以前にも同じようなグラフをご紹介しましたが、 こちらのほうが実測データが新しいものになります。 ご覧のように気温が下降を続けている実測データに対し IPCCの予測は上昇を続けており、現実と乖離している ということが解ります。 仮にこのペースで気温の下降が続くとしたら、 今世紀末には現在の-2℃というレベルで寒冷化している ということになるのかも知れません。 当blogでは同じようなグラフを過去にもご紹介しましたが、ご覧のようにIPCCが採用した予測は全く的外れな結果になっています。地球の平均気温は1998年頃をピークとしてその後の10年程はずっと下降傾向を示しています。もちろん、「短期間の変動で結論を出すのは拙速」といわれるかも知れません。しかしながら、IPCCが採用している仮説によれば人為的な温暖化が始まったのはここ40年ほどのことでしかないわけですから、その中での10年であれば決して短期間とは言い難いでしょう。
これも以前に述べたことの繰り返しになりますが、IPCCは自然界がCO2を吸収する限界を炭素換算で31億トン/年としています。人為的なCO2排出量がそれを上回ったのは1960年代後半くらいですから、それ以前の気温上昇は人為的なものではなかったということになります。
1960年代後半から現在まで40年少々の間、気温の上昇傾向が見られたのは1970年代後半から1990年代後半にかけてほぼ20年間で0.4℃強だけですから、この20年の気温上昇0.4℃強を人為的とする一方で、その前後の10年は自然の気候変動によって人為的な温暖化が相殺されたなどと説明するはあまりにも都合が良すぎます。
近年の平均気温が下降していることに対して、国立環境研は「地球が低温期にあるのは事実だが、気候の揺らぎが原因の一つ」と説明しています。上掲のグラフのように予測と一致しなかったことについては、気候モデルでもその「揺らぎ」を踏まえているものの、それがいつ頃から始まるかという正確な再現ができないゆえ短期的には予測通りにならないかも知れないが、長期的な傾向については充分に予測可能で、温暖化の進行は間違いないとしています。私には非常に見苦しい言い訳にしか聞こえませんが。
そもそも、「揺らぎ」を正確に再現できないのなら、1970年代後半から1990年代後半にかけて0.4℃少々の気温上昇があったのも、いくつかの「再現できなかった揺らぎ」が重なっただけかも知れません。このほぼ20年間の気温上昇が彼らのいう人為的温暖化の全てです。10年程度の期間における「揺らぎ」の発生を正確に再現できないレベルのコンピュータモデルを使って、この20年間の気温上昇が間違いなく人類の排出した温室効果ガスの影響だと言い張るのは、およそ科学的な態度とはいえません。というより、似非科学の典型的なパターンです。
一方、ゴア氏の『不都合な真実』では温暖化によって海水温が上昇するとハリケーンなどの発生数や規模が拡大し、大きな被害をもたらすといった旨が唱えられています。が、現実には下図のように台風やハリケーン、サイクロンなど熱帯低気圧のエネルギー累計はこの35年ほどの間に上昇傾向など見られません。
熱帯低気圧のエネルギー累計の推移 何度も述べてきたことですが、地球の平均気温の変化が自然変動の範囲を逸脱しているという根拠も、その原因が人為的な温室効果ガスの排出によってもたらされたものだとする根拠も、全てコンピュータシミュレーションによる再現実験でしか示されていません。しかし、シミュレーションが現実を正しく再現できず、未来を正確に予測できていない事実を鑑みれば、過去に遡っても正しくそれが再現できていたとは到底見なすことなどできません。
彼等が過去を再現できたと言い張るのは、既に出ている結果に合わせてパラメタなどを合わせ込んでいく作業を重ねたという事実に過ぎません。それでも合わない場合は「フラックス調整」と称する
数値の改ざん まで行っているのですから、これを信頼できるシミュレーションだと見なすほうがどうかしています。私たち懐疑派・否定派にこのシミュレーションが「後出しジャンケン」と言われるのはそれ故です。
こうして彼等の予想が次々に外れていくなか、政治的には既成事実化がどんどん進められてもはや後戻りが難しい状態になっています。この地球温暖化問題を何らかのカタチで幕引きするとしたら、それはいずれ違う「新たな脅威」を台頭させ、「オゾン層破壊問題」のように大衆メディアが忘れ去るよう仕向けるしかないのかも知れません。その「新たな脅威」もまたコンピュータシミュレーションによって誇張ないし創作された政治的なものであるのは間違いないと思いますが。
現に、新型インフルエンザをはじめとした「パンデミック」の恐怖は、やはりシミュレーションを駆使して大げさな数字を弾き出し、大衆をコントロールしようとするいつものパターンにハマっています。
多くの宗教に見られる「終末論」と同様の心理操作は、大衆をコントロールしたい指導者達にとって最も有効な手段だということなのでしょう。「終末論」と「予言」がワンセットであったように、この種の「危機管理」と「シミュレーション」もワンセットであるところからして、言葉と雰囲気を変えてはいるものの、太古から同じことが繰り返されているということなのだと思います。
またしても5回にわたる連載で裁判員制度についてダラダラと私見を述べさせて頂きました。件の制度はその中身からして本質を逸脱したインチキなハナシばかりで嫌になりますが、先月下旬に内閣府から発表された世論調査の結果もまた実にインチキ臭かったですねぇ。それまで各メディアの世論調査では70~80%の人が「参加したくない」と答えていたのに、いきなり71.5%の人が「選ばれれば行く」と答えたように聞こえる報道を引き出してしまいました。 しかし、この内容をよく見直してみますと、選択項目の設定の仕方で回答が誘導され、大衆メディアの報道もそれに引きずられただけと見るべきでしょう。そもそも、同じ内閣府の調査でも平成17年2月に行われたときの選択項目と今回とはかなり違った書きぶりになっています。まずは平成17年のときの選択項目とその内訳をご覧頂きましょうか。 ・参加したい (4.4%) ・参加しても良い (21.1%) ・あまり参加したくない (34.9%) ・参加したくない (35.1%) ・わからない (4.4%) 「参加したい」と「参加しても良い」の合計が25.5%だったのに対して「参加したくない」と「あまり参加したくない」の合計は70.0%で、このときは民間の世論調査と大差ない結果でした。が、今回発表された内閣府の世論調査は選択項目とその内訳が以下のようになっていました。 ・義務であるか否かにかかわらず行きたい (13.6%) ・義務だからなるべく行かなければならない (57.9%) ・義務だとしても行くつもりはない (25.9%) ご覧のように、選択項目が減っているうえ、いちいち「義務」という言葉を付し、「参加したくない」と思っている人に対して暗にプレッシャーをかけていることがありありと解ります。「義務だとしても行くつもりはない」という背徳を匂わせるような項目を避けると、自動的に参加する意思がある項目を選ばなければなりません。これはかなり卑怯な項目設定であるように感じます。 もし、ここに「義務だから行かざるを得ないが、免除されるなら行かない」という項目を加えていたら、「義務だからなるべく行かなければならない」を選んだ57.9%のほぼ全員がそちらへ流れ、「参加したくない人」としてカウントされる結果になっていたのはまず間違いないでしょう。 「義務だからなるべく行かなければならない」の裏を返せば「義務でないなら行きたくない」ということになると見るべきです。要するに、この世論調査の結果で見えてくるのは、義務でなければ83.8%の人が「参加したくない」と思っているのが実態だということです。これは70%程度だった以前よりむしろ忌避したい人が増えていると考えるべきでしょう。 こうした結果に至ったのは、恐らくメディアも守秘義務だの量刑判断だの厳しい罰則と重い責任(※)を伝えるようになり、それが広く知られるようになったからだと思います。 (※裁判員が量刑判断にも加わるということから「重い責任」とイメージされ、メディアもそのように扱っていますが、何度も述べてきましたように、裁判所の考え方次第でこれを形骸化してしまうことが可能です。なので、私は裁判員にそれほど重い責任が課せられているとは考えません。ま、そういうことは世間一般に知られていないからこそ裁判員が重責とイメージされ、敬遠されがちなのでしょう。) 政府の犬であるNHKなどはあたかも71.5%の人が「参加する」と考えているかのように伝えていたのですから、笑止千万です。こういうインチキな情報を流布するのは「世論調査」ではなく、「世論操作」そのものです。ま、こういうインチキで国民を誘導しなければならないくらい、この制度は国民から望まれていないものだということですね。
アメリカの陪審員制度は一般市民がある日突然裁判所から呼び出され、特別な理由なしに辞退が認められないという点が日本の裁判員制度とよく似ています。が、アメリカの陪審員は精神的負担がより重くなりがちな量刑判断は求められません。フランスやドイツの参審員は日本と同じように量刑判断も求められますが、協会などの推薦によって選ばれるため、ある日突然強制参加させられるという訳ではありません。
日本の裁判員制度は「国民の負担を軽減する」ということが盛んに唱えられている割に負担が大きく、欧米の「悪いとこ取り」と言うべき仕組みになっています。日本の制度で「国民の負担を軽減する」という建前は「裁判が粗雑なものになっても構わないから速やかにこれを終わらせる」というところへほぼ直結しており、本当のところは国民の負担を軽減する気などないのでしょう。
前回ご紹介したように、アメリカの陪審員制度は陪審員の判断を尊重するため、陪審員によって下された評決はよほどのことがない限り覆らず、原則として上訴も認められません。が、陪審員裁判を望むか否かの選択権は被告人にあります。フランスやドイツなどの参審制では上訴が認められていますが、上訴審にも参審員を参加させることができるため、制度の意義が保たれています。
日本の場合、二審以上に裁判員を参加させない制度になっていることから、原則として一審の判決は破棄されないという方針が示されており、これはアメリカ式に近いものといえます。が、裁判員裁判とするか否かの選択権は裁判所が握っており、被告人にとってもこの制度は「悪いとこ取り」になっていると言わざるを得ません。
欧米の参審制と陪審制はそれぞれに異なる考え方で制度設計が成されていますが、それぞれある程度のバランスは保たれていると思います。しかし、日本の裁判員制度は参加させられる国民にとっても実際に裁かれる被告人にとっても不都合だらけで、こうしたバランスがことごとく無視されているように思います。唯一、裁判所にとって好都合な制度になっているという点で官僚主導のいつものパターンにハマっており、一方的で矛盾だらけの制度設計が成されているというのが個人的な印象です。
矛盾だらけの制度設計といえば、そもそも裁判員制度それ自体が憲法に反すると指摘している人がおり、私もその指摘は正鵠を射ていると思います。日本国憲法の第6章では「司法」について述べられていますが、その内容を見ますと国民の司法参加を全く想定していないことが解ります。国民を裁判に参加させ、裁判官の考え方に影響を与えること自体が日本では憲法違反に当たる可能性があるんですね。それは下記に示す憲法第76条の3項に反すると考えられるからです。
すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
日本国憲法では、裁判官を拘束するものは憲法や法律のみであって、その職権は独立したものであるとされています。つまり、裁判員が裁判官に意見し、それを裁判官に聞き入れさせるのは憲法の定めに反すると考えられるわけです。仮に、裁判員を「裁判官」と同じであると見なすよう拡大解釈しても、下記に示す憲法第80条で規定されている裁判官の任命や任期に係る内容は裁判員のそれに当たりませんから、憲法との矛盾は解消されないでしょう。
下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。
要するに、マトモな法解釈でいけば矛盾なく裁判員制度を設けるには憲法の改正が不可欠だと考えるべきです。それが成されずに法制化されたこの裁判員制度は存在そのものに矛盾を抱えていると見られるわけです。この制度に反対する人たちの間ではこうした指摘が以前から成されていたにも関わらず、その声を大衆メディアが取り上げることはまずありません。このように根源的な問題を棚に上げて守秘義務が厳しすぎるの何のと騒いでいるのですから笑止千万です。
繰り返しになりますが、周防正行監督の『
それでもボクはやってない 』の冒頭で示される「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という格言にあるように、刑事裁判で最も大事なことは「無実の被告人に有罪判決を下してはならない」ということです。欧米の参審制・陪審制もこの大原則を第一義としています。刑事裁判において「被告人の利益」は必ず守られ、公平さが常に確保されなければなりません。有名な「疑わしきは被告人の利益に」という格言もここに根ざすものです。
しかし、日本の裁判員制度はこうした被告人の利益や公平さの確保よりも裁判員として強制参加させられる国民の負担を軽減することだったり、公判の内容が解りやすくなることだったり、裁判を身近にすることなどが優先され、裁判員制度の意義を失わせないために控訴審でも原則として一審判決は破棄されないという方向で考えられているという、とんでもない本末転倒状態になっています。
刑事裁判は誰のためのものかといえば、それは裁かれる被告人のためのものです。もちろん、法秩序を維持するためでもありますが、それは巨視的なハナシであって、個々の刑事裁判で最も尊重されなければならないのは誰が何と言おうと「被告人の利益」です。
「被告人の利益」を無視して良いというのなら、はじめから刑事裁判などという手続きを踏まずに刑務所へぶち込むなり、死刑に処すなり、何でもありということになってしまいます。それでは人権が守れないから刑事裁判を行うわけで、「刑事裁判を行う」ということは「被告人の利益を守る」「人権を尊重する」ということと同義です。
しかし、日本の裁判員制度はとてもそうしたことを慎重に考えているように見えません。こんな滅茶苦茶な制度で国民を司法に参加させ、欧米先進国並みになったと喜んでいるようでは諸外国から嘲笑を買うだけです。
大衆メディアはこのインチキな裁判員制度について極めて軽薄に賛意を示してきましたが、その理由は法務省などの宣伝文句の受け売りに過ぎません。数多の問題点が累々と積み重なっている状況に全く気付いていなかったり毎日新聞のように気付いても遅きに失していたりするのは、つまり裁判員制度が検討され始めた頃からずっと真面目に向き合う気がなく、その内容をメディア自身が精査してこなかった動かぬ証拠です。
「刑事裁判は裁かれる被告人のためのものである」という大原則を念頭に、皆さんももう一度日本の裁判員制度の内容を見直してみてください。そうすればこの制度が如何に矛盾に満ち、それを殆どのメディアが看過しているという現状がご理解頂けると思います。
(おしまい)
大衆メディアの多くは「守秘義務が厳し過ぎる」といったそれほど重大ではない問題点で騒ぐ一方、裁判員制度の抱えているもっと根幹に関わる問題点はことごとく見過ごしている状態です。ただ、毎日新聞の8月7日付の社説『裁判員裁判 順調に始まったけれど』で以下のように述べられていたのは他紙に比べてずっとマトモだったといえるでしょう。
4日間という審理と評議の日程は適切だったかどうか。裁判員の負担も考慮しなければならないが、比較的単純な構図の事件でも審理時間の足りなさを感じた裁判員がいたことが気になる。初公判前に証拠や争点を絞り込む公判前整理手続きはすでに各地裁で事件ごとに進められているが、実際の公判がこのような短期間では、手続き次第で裁判員裁判は形だけのものになる恐れがある。検察官は求められる証拠はすべて出し、弁護人も争点を示して審理計画を立てるとされているが、非公開で行われるため国民の目でチェックすることはできない。
公判前整理手続によって密室で争点が絞り込まれ、その経過が外部からチェックできないのでは裁判員の存在を形骸化させ、むしろ「閉ざされた司法」になりかねないという問題点は当blogで何度も述べてきました。毎日新聞はこうした点に気付いただけでもマシだったと思います。
もっとも、この問題点は初めから解っていたことです。こうした指摘は裁判員制度の法整備が検討されている段階からもっともっと大きな声で訴えておくべきでした。とっくの昔に法整備が完了し、既に制度が動き始めてしまったいまになって言い始めても遅きに失していると言わざるを得ません。
国民の司法参加が「先進国らしさ」の一つだと多くのメディアは勘違いしているようですが、日本の裁判員制度はこうして骨抜きにされた制度設計が成されていますから、どう運用するかは裁判所次第といっても過言ではないでしょう。ここで気になるのは、裁判員裁判で判決が下され、それを不服として控訴された場合どのように扱われるかです。
以前にも述べましたが、従来の法曹界の常識を覆すような画期的な判決が裁判員によってもたらされたら、これは間違いなく控訴されることになるでしょう。日本の裁判員制度では裁判員が参加できるのは一審までとされていますから、控訴審が争われることになれば裁判員の出る幕はなくなり、一審で裁判員が下した判断も水泡に帰します。これでは裁判員制度を設けた意味がなくなるという意見は各方面から上がっており、司法研修所の報告書でもその点が考慮されました。曰く、
「控訴審については、裁判員が判断した一審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限る」
ま、これはアメリカの陪審員制度に近い考え方といえるわけですが、問題なのはアメリカのそれと違って日本の裁判員制度は被告人の意思で裁判員裁判とするか否かを選択できないところにあります。
アメリカの制度では被告人が望んだ場合に限って陪審員裁判が行われ、その判決は重大な事実が明らかになるなどよほどのことがない限り覆りません。被告人にとって不利な判決が下され、それが確定してしまっても、陪審員裁判を選択した被告人自身の責任というわけです。
ところが、日本の制度では被告人の意思を一切無視し、裁判所が勝手に裁判員裁判にするか否かを決めてしまいます。そして運悪く裁判員裁判となり、下された判決が被告人にとって極めて不利なものであっても「一審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限る」というのでは、被告人の利益が大きく損なわれることになります。
日本は基本的に三審制(といっても刑事裁判で最高裁まで争われるケースは滅多にありませんから実質的には二審制という人もいます)を採用しており、一度の裁判では判決結果が確定しにくいようになっています。こうした制度設計は各国に共通するものですが、それも刑事裁判における究極の目的である「冤罪の防止」を考えてのことです。
被告人が望みもしないのに勝手に裁判員裁判とされてしまうことがあり、その結果を尊重して一審判決はそう簡単に覆させないというのでは、被告人の利益を奪うことになりかねません。これでは憲法で保障された国民の権利を侵害する可能性も出てくるでしょう。
アメリカ式に似たカタチで裁判員裁判の判決結果を尊重し、一審判決が破棄されるのは例外的なケースに限られてしまうのなら、裁判員裁判を受けるか従来通り裁判官のみの裁判を受けるか、その選択権もアメリカに倣って被告人に与えなければ「被告人の利益」が保証されていることにはならないでしょう。
被告人に裁判員裁判にするか否かの選択権を与えないというのなら、上訴審にも参審員を参加させるフランスやドイツなどような方式を採用し、一審判決に捕らわれない控訴審を行えば良いのです。日本の裁判員制度こうした部分を見ても「被告人の利益」を無視し、いい加減な制度設計が成されているということが解ります。
(
つづく )
日本司法支援センター(法テラス)によれば、国選弁護人の報酬は今回のように3日間の審理とその翌日に判決が下されるような裁判員裁判を担当すれば40万円台になるといいます。もちろん、弁護人は裁判が開かれる前から様々な準備をしなければなりませんから、公判期日の4日間働けばよいというわけではありません。しかも、この報酬というのは交通費など一切合切の経費を含めたものです。
一般的に弁護士は所属する事務所の運営費などもこうした報酬で賄わなければなりませんから、満額が自分の自由にできるお金になるわけではないでしょう。ま、この辺はケースバイケースかも知れませんが、国選弁護人など片手間でやるような仕事ですから、普通の民事裁判などに比べればあまり割の良い仕事ではなく、それゆえ国選弁護人の確保も苦労するのだと思います。
少々込み入った調査や資料作成のために専門家の力を借りなければならなくなった場合、国選弁護人の報酬のなかで遣り繰りするということはないでしょう。常識的に考えて殆どの必要経費は被告人持ちということになるでしょうから、素人である裁判員にも解りやすくするためによりカネのかかる証拠物件を提出する必要が生じてくれば、経済的弱者をより不利な状況に追い込みかねません。
今般初めて実施された裁判員裁判で致命傷の状態を示したCGが検察から提示されたのは前回ご紹介した通りで、その元データの使用料280万円は依頼を受けた東大の学生が自腹で負担するという、一般的な社会通念では絶対にあり得ないようなカタチで処理されました。こうした非常識がまかり通り、被告人にとって不公平な状況が生じてしまうのはゆゆしきことです。
今回は被告人が犯行を認めていましたから、この高価なCGが決定的なポイントになったとはいえません。が、もし被告人が無罪を主張し、告発されたのは誤りである可能性も拭えない裁判で今回同様に不公平な証拠の提出が成されれば、冤罪を生みやすい危険な方向へ進んでしまう恐れがあります。
驚くべきことに、こうした状態を問題視するメディアはほぼ皆無でした。日本の裁判員制度は欧米の参審・陪審制と真逆に「被告人の利益」などロクに考えていないということに殆どのメディアは気付いていないようです(というより、「被告人の利益」という概念そのものを持ち合わせていないのかも知れませんが)。
もし、今後も検察側から大変な費用がかかるCGなどでの説明が成されるようであれば、被告人も同様に高額の費用を負担して対抗しなければ見劣りしてしまう恐れがあります。裁判員が関わらない従来の裁判でも国選弁護人しか付けられない被告人が不利になりがちだったのは同じかも知れません。が、それでもこうしたビジネスプレゼンのごときカネのかかる資料の提示など行われてこなかったわけで、ここまで大きな差が生じる恐れはなかったハズです。
また、人やカネが乏しくても検察の示した証拠を崩すために時間をかけて地道な調査を重ね、公判に備えれば、何とか対抗できるケースもあると思います。が、今回のように連日の集中審理で短期決戦となれば、そうした対応が困難になる恐れも充分に考えられます。カネに物をいわせて人海戦術をとれるか否か、被告人の経済力次第で状況が有利になったり不利になったりする恐れは今後ますます高まるかも知れません。
少なくとも、時間が限られ、弁論のチャンスが減るほど、より高度なスキルや相応の熟練が求められることになるのは間違いないでしょう。検察は場数を踏めますから、専門の人材を育成することも難しくないと思います。が、国選弁護人などは本業の傍らでやるような仕事ですから、こうした点で見ても経済的弱者がより不利な状況に追い込まれていく可能性が懸念されます。
従来は多少専門的な内容でも裁判官に正しく伝わりさえすればよかった証拠資料も素人の裁判員に解りやすくしなければ不利になりかねず、実質的に公判期日も弁論の機会も削られることでスキルの高い専門的な弁護人を雇えれば有利になるかも知れないというのが現状です。これでは「この世の沙汰もカネ次第」ということになってしまいかねません。
現に、アメリカの陪審員裁判でもそうした点が度々問題になっています。アチラは国民の負担軽減を理由として事前に密室で談合して争点を絞ったり、公判期日を短縮してしまったり、多数決でとっとと評決を下してしまうなど日本の裁判員裁判ように粗雑なものではありませんが、それでも被告人の経済力次第で状況が大きく違ってくることが問題視されているのです。
所得格差についてあれだけ大騒ぎして「格差是正」を声高に叫んできた日本のメディアは、何故こうした格差によって結果にも相応の違いが生じかねない司法制度改悪を放置していられるのでしょうか?
確かに、解りにくい裁判より解りやすい裁判であるに越したことはありません。が、「解りやすさ」という部分を求めたせいでマンパワーや資金力が潤沢であるほうが有利となるようでは問題です。解りにくい部分があればそれを説明する専門家を設置するなど対処の仕方はいくらでもあると思いますし、メディアもそれを報じる際に解りにくい部分を個別にフォローすれば良いわけで、「公平さ」より「解りやすさ」のほうが優先される裁判などあってはならないことです。
もし、解りやすさが重要な課題で、裁判員制度の導入がその課題の解決に有効だったとするなら、民事裁判に裁判員制度が導入されなかったのは何故なのかを徹底的に糾弾しなければなりません。
現在、原爆症の認定を巡って国を相手取った民事裁判が全国で100件近く起こされています。個別の刑事事件などよりこうした国の制度に絡む民事裁判こそ「自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。」という裁判員制度導入の理念に見合うものです。こうした裁判こそ国民に解りやすい法定内でのやりとりが求められ、裁判そのものにも「国民の視点や感覚」が生かされてしかるべきです。
しかし、日本の裁判員制度は刑事裁判でも特に殺人事件をはじめとした凶悪犯罪を中心に扱うのみで、民事裁判には適用されません。こうした矛盾を全てスルーして、守秘義務が厳し過ぎるの何のと、あまり重要とは言い難い部分に注文を付けているのは、要するに制度の中身を理解していないのか、理解しながら長いものに巻かれているだけなのか、いずれにしてもジャーナリズムとして終わっています。
(
つづく )
ごく短期間ではありましたが、日本にも戦前にかなり酷い内容の陪審員制度がありました。ですから、今般実施された裁判員裁判が日本初の国民参加裁判というわけではありません。日本の司法制度の歴史に新たな汚点を刻んだということに違いはないでしょうけど。
メディアは単なる話題性を求めているのか、何らかの力に影響されているのか、その真相は解りませんが、とにかくこの欠陥だらけの裁判員制度を極めて好意的に伝えています。
特に今回のケースで気味が悪かったのは、「娘の形見のナイフを犯行に使ったのは何故か」という旨の質問が裁判員から発せられたことについて、被告人の弁護士が「これは法律家では出ない質問だろうと思いますね。ハッと思いました。」とコメントしていた部分が殊更強調されていたことです。これを以て裁判員制度の良い効果が現われたという方向へ世論を向かわせたいのでしょうけど、本当に法律家から出ないような質問だったといえるでしょうか?
このコメントを発した伊達俊二弁護士は国選弁護人ですから、この制度について好意的な意見を持っているような人が選ばれた可能性も否定できません。ま、それ以前にこの弁護士は刑事裁判など専門ではありません。そもそも日本で刑事裁判を専門でやっている弁護士は非常に少なく、国選弁護人も本業の傍らでやるような仕事です。彼の場合も第二東京弁護士会にあるプロフィールを見ますと、専門は不動産・住居関係、雇用・労働関係、消費者契約・消費者問題、契約関係一般、家族法・相続関係といった典型的な民事が中心です。
こんな門外漢の「これは法律家では出ない質問だろうと思いますね。ハッと思いました。」などというコメントを以て「裁判員制度の好影響」と大げさに報じるのは殆ど世論操作というべき状態でしょう。
今回の判決は検察側が求刑した懲役16年に対し、判決は懲役15年となりました。通常、この種の裁判では求刑の「8掛け」が一般的とされており、本来であれば懲役12~13年くらいが妥当な線だったかも知れません。が、こうした結果に至った背景には検察側の主張がほぼ全面的に認められ、弁護側の主張がことごとく退けられてしまったからだと考えられます。
件の裁判を傍聴した元検事の堀田力氏によれば、「法廷での一問一問が勝負なのに、ダラダラと事実関係を聞いていく従来のやり方がかなり残っていた。飲酒や競馬といった被告の生活態度も弁護側から不必要に多く出ていた」「弁護側がもっと戦略を練る必要があった」としています。同様に、検察側が組織力で練り上げた立証が圧倒していた状態を「弁護側は見劣りがした」とする声も少なからず上がっているようです。
こうした意見を見ても今回の弁護人は殺人事件の弁護を担当するのに充分な技量を有していたとは見なし難く、その場数を踏んでいるようにも見えず、そんな人物が発した「これは法律家では出ない質問だろうと思いますね。ハッと思いました。」というコメントを大きく扱う必要はなかったと思います。
日本の裁判員裁判は「公正な審理より裁判員の負担軽減を優先する」という滅茶苦茶な制度に支えられています。アメリカの陪審員は何週間もホテルに缶詰状態にされ、テレビや新聞雑誌などメディアを通じて入ってくる情報を一切遮断され、本屋へ行くことも制限されるなど、公正な審理を維持するためにかなり大きな負担を国民に強いています。さすがに判決まで何ヶ月も要するようなケースは別なようですが、今回のように数日で決着が付くようなケースでは間違いなく缶詰にされていたでしょう。
それに比べますと、日本の裁判員制度は二言目には「国民の負担を軽減する」というフレーズが出てきて、被告人にとって非常に不利となるような粗雑な公判になってもやむなしという状況が作り上げられています。国民をダシに使って裁判のスピードアップを図るのが裁判員制度の本当の目的ではないかと疑いたくなるのは、制度の中身がことごとくそちらを向いているからです。
実際、今回のケースも審理は僅か3日で終了し、4日目に評議が行われ判決が下されました。こうした短期決戦では、資金力と組織力があるほうが有利になりがちで、国選弁護人をつけるしかない経済的弱者には不利になりがちです。増額されたとはいえ国選弁護人の受け取る報酬は如何にも少なく、特に弁護士の絶対数が少ない地方では担当弁護士の確保が難しいため、被告人の置かれる条件はさらに悪くなるばかりでしょう。
今回、メディアによって大々的に紹介されましたが、裁判官と裁判員の席には液晶モニタが設置されて写真やCGなどがそこに映し出され、従来より解りやすい説明が成されたといいます。当然、こうした資料を製作するにはカネがかかります。例えば、イラストなどでも素人のヘタクソなものよりプロの描いたそれのほうが遙かに解りやすく、好印象を与えられるものです。ビジネスプレゼンテーションなどでもそうですが、費用のかけ方次第で印象はかなり変わってくるように、この種の資料は予算的に余裕がないほうが不利になりがちです。
従来は検察や警察の依頼を受けた法医学者が遺体を司法解剖し、傷の状況などを記載した鑑定書を解剖写真とともに提出、検察側はこれらを証拠としてきました。素人である裁判員にはこうした鑑定書の内容を精査するのが困難なだけでなく、解剖写真などは刺激が強すぎてマトモに見られないという人も少なくないでしょう。そのため、今回は鑑定書の「説明資料」として3次元CGが用いられ、死因となった刺し傷の状況が示されたといいます。
しかし、この「説明資料」が作成された経緯は極めて異常だったと言わざるを得ません。これは検察の依頼を受けた東大法医学教室の吉田謙一教授と同医学部5年生の瀬尾拡史氏によって製作されましたが、その費用が通常ではあり得ないカタチで処理されているんですね。ここではアメリカの企業が製作したという人体内部をCG化したデータが利用され、そこに傷の状況や凶器が描き込まれたといいます。その元データはGoogle Earthのように有償となっており、今回はその利用料の280万円が驚くべきことに学生である瀬尾氏のポケットマネーで支払われたといいます。こんな異例尽くめの証拠物件は前代未聞です。
カネに物をいわせられるほうが有利になるというのも問題ですが、特に今回はカネの動きが非常識過ぎます。一般市民の「常識」が司法改革に繋がるとメディアから無邪気に期待されている裁判員裁判ですが、その第一回目となった裁判には「常識ではあり得ないようなカネの動きで製作された資料」が用いられるという異常事態がその水面下で展開していたわけです。
(
つづく )
ご存じのように裁判員裁判が実施されました。それを受けて各紙とも社説で論評を展開していました(各紙電子版の無料で読める頁は殆どリンク切になっていますので、五大紙+中日新聞の社説を
コチラ に纏めておきました)が、相変わらずの勉強不足で幾分マトモだった毎日新聞を除いて大概は本質が解っていないと思わされるものばかりでした。
以前、「
それでもボクはやりたくない 」と題した5回にわたる連載で裁判員制度に対する私見を述べさせて頂きましたが、あれほど矛盾に満ちた制度について殆どのメディアはフィーリングだけで捉え、本気でその内容を精査する気がないようです。日本の制度が海外のそれと比べてどう違うのかといった基本的な部分もロクに確認しておらず、稚拙な認識の中で適当なことを書いているだけといった印象のものが殆どでした。
最も多かった意見は「厳しすぎる守秘義務を見直すべき」というものでした。が、そんなものは枝葉末節の問題点に過ぎません。裁判員を参加させずに法廷外で予め争点を絞ってしまったり、二審以上に裁判員は参加できないなど裁判員の影響力をゼロにしてしまえる骨抜きにされた制度設計がなされているというもっと根幹に関わる欠陥を問題視しているメディアは毎日新聞を除いて殆どありませんでした。
こうした仕組みを理解できていないのか、何らかの力が働いているのか、その真相は解りませんが、制度そのものに対しては判で押したように好意的な論評となっているのが非常に気持ち悪く感じるところです。
いつも酷い社説を載せている朝日新聞は今回も滅茶苦茶でしたが、特に酷かったのが8月4日付の社説『裁判員始動―市民感覚を重ね合わせて』にある以下の部分です。
司法に市民が参加してきた歴史を持つ欧米では、陪審員や参審員の目の前で行われる法廷での審理が中心だ。それとは異質な日本の刑事司法の姿は、「ガラパゴス的」といわれてきた。その孤島へ、裁判員といういわば「新種」が上陸してきたわけだ。 裁判員に求められているのは、日々変わりゆく社会に身を置き、虚々実々の世間を生きている庶民ならではの感覚だ。プロの裁判官が持ち得ないような視点こそが大切なのだ。 そんな市民の視点を反映するには、裁判官との評議で裁判員たちが自由に意見を言えることが前提となる。その雰囲気を作るのは裁判官の責任だ。
「欧米では、陪審員や参審員の目の前で行われる法廷での審理が中心」などと書いている時点でこの論説委員は何も勉強していないということを露呈しています。以前にも触れましたように、アメリカの刑事裁判では検察が示した罪状を被告人が否認し、尚かつ被告人が望んだ場合に限って陪審員裁判が行われます。しかも、陪審員の利用率は僅か5%ほどでしかありません。
また、ヨーロッパの参審制も協会などの推薦によって選ばれた参審員が特定の期間を継続する任期制となっていますから、それほど沢山の裁判に参加できないのは明らかです。要するに、「欧米では、陪審員や参審員の目の前で行われる法廷での審理が中心」などというのは、この論説委員の妄想に過ぎません。
繰り返しになりますが、欧米における陪審制・参審制は民主化以前、国家弾圧で不当な裁判が行われてきた反省に立ったもので、その第一義は「被告人の利益」にあります。国が司法権を行使するに当たってそれが一方的な内容となり、被告人に不利な裁判が行われないことを最も重要な目的としているのが欧米の陪審制・参審制です。
しかし、日本の裁判員制度には「被告人の利益」など何処にも謳われていません。しかも、「裁判員の負担軽減」という理由で裁判員を参加させずに「公判前整理手続」という制度を用いて法廷外で予め争点を絞り、裁判そのもののスピードアップを図るという異常な制度になっています。被告人にとっては不利益にしかなりそうもない制度設計がなされている日本の裁判員制度は、欧米のそれとは180度逆を向いているといっても過言ではないでしょう。
欧米流の裁判制度に比して従来の日本が「ガラパゴス的」だったというのなら、「被告人の利益」を第一義としている欧米流に対して「被告人の利益」より「裁判員の負担軽減」に重きが置かれている本末転倒の日本流は「ガラパゴス的」な度合いがさらに高まったというべきでしょう。
また、股間に熱いコーヒーをこぼして火傷した老婦人が熱いコーヒーを出したマクドナルドを訴えて勝訴するとか、雨が降っていたのでバスルームにバーベキューコンロを持ち込んでバーベキューを始めたところ、バスタブに火が燃え移って自宅を全焼させた莫迦オヤジが「説明書にバスタブの中で使用するなという記載がなかった」とバーベキューコンロのメーカーを訴えて勝訴するとか、陪審員裁判の結果として非常識な判決が出されている訴訟大国アメリカも十二分に「ガラパゴス的」というべきでしょう。
余談になりますが、アメリカ人のジョークのセンスに対して敬服するのは、毎年こうしたバカバカしい訴訟を起こした人に対して「
ステラ賞 」というものを授与しているところです。この賞が冠する「ステラ」とは、上述のマクドナルドから60万ドル程度の和解金をせしめたステラ・リーベックという老婦人の名にちなんでいます。
これも以前に述べたことですが、私の知人の知人が裁判員制度導入前の模擬裁判に参加した際、疑問を感じた部分について質問したところ、それは「公判前整理手続で争点から外されている」ということでマトモに取り合ってもらえなかったといいます。裁判官・検察官・弁護人の三者が密室で談合し、事前に争点を絞ってしまう「公判前整理手続」などというインチキな制度が導入されて朝日新聞の言うような「プロの裁判官が持ち得ないような視点」を裁判員が遺憾なく発揮できるとは到底思えません。
この論説委員は「裁判官との評議で裁判員たちが自由に意見を言えることが前提となる。その雰囲気を作るのは裁判官の責任だ。」などと述べていますが、現実には自由な意見が「公判前整理手続」という制度の存在によって排除されてしまうことがあり得るのです。「裁判員の負担を軽減する」という建前の下、こうしたゆゆしき制度が導入されているという事実をこの論説委員は全く気付いていません。
中日新聞の8月4日付の社説『裁判員スタート 扉は市民に開かれた』で述べられている「透明で市民常識の反映する司法を築きたい」などという期待も全く的外れなものです。あのような密室での談合制度が導入された現状のほうがむしろ閉鎖的で公平性を欠くことになりかねない危険があると危惧すべきで、そうした点をもっと声高に叫ぶべきなのです。
こうした問題点をことごとく見過ごし、法務省などが唱える宣伝文句を鵜呑みにしてしまう彼らの目は完全に「節穴」としか言いようがありません。
(
つづく )
実用的な陸上交通手段としてまだ馬車が主役だった時代の自動車は半ば大金持ちの道楽みたいなものだったと見て良いでしょう。ガソリンエンジン車も電気自動車も実用性や耐久性、信頼性などが低かった時代は、細かいことなど気にせずにスポーツやレジャーのような感覚でこれを楽しんでいたのだと思います。
当時のガソリンエンジン車はセルモーターなどありませんでしたから、大抵はクランクハンドルを人の手で回して始動させていました。このときハンドルがキックバックしてケガを負わせてしまったり、場合によっては死亡に至るような事故も起こったそうです。
が、こうした力仕事は使用人が担うような時代でしたから、さほど大きな問題にはならなかったようです。昔は人の命など現在ほど重くなく、身分階級によってその重さにも大きな差がありました(現在でも国や宗教的な概念によってそれに近いところはありますが)。人の命に対する意識や身分に対する考え方が大昔から現代の日本のようなものだったなら、歴史はもっと違った筋道を歩んでいたでしょう。
ルノー・タイプDJ このクルマが生産された頃はかなり実用的な乗り物になっていたと思いますが、 ご覧の通り、造りのほうはまだ馬車の延長線上といった感じです。 使用人である運転手はキャビンの外に座り、主人と席を同じくしないという 身分の違いを踏まえた馬車のパッケージングがそのまま踏襲されています。 馬車同様に運転席がオープンになっていることも多く、 このクルマも屋根とフロントのウインドスクリーンはありますが 側面は素通しになっています。 初期のガソリンエンジン車は始動性が非常に悪く、エンジントラブルも少なくなかったようで、信頼性はあまり高くなかったようです。さらに、大きな音と振動、真っ黒な煙を吐きながら走っていましたから、その様は決して上品なものといえませんでした。こうした品質面に関していえば、ガソリンエンジン車は電気自動車に大きく劣っていたというわけですね。電気自動車の航続距離の短さも一長一短というカタチで許容され、それほど大きな問題ではなかったと思われます。
が、自動車が大金持ちの道楽の乗り物だった時代が過ぎると、電気自動車は特殊な用途を除いてことごとく一線から退きました。その最大の理由はやはり航続距離の短さでしょう。現在の日本では国などからドッサリと補助金を積んでもらって何とか成り立ちそうな状況ですが、それでも航続距離の短さから用途が限定的になってしまうという点は相変わらずで、将来に向けて道が大きく開けるような決定的な進歩があったとはいえません。
航続距離といえば、アメリカのベンチャー企業
テスラ・モーターズ から約1000万円で発売されているロードスターがしばしば話題になります。が、アレも特別なバッテリーが使われていたり、際立って高度な技術が盛り込まれているわけではありません。ノートPC用などに広く用いられている既存の18650形リチウムイオン電池を6831個寄せ集めただけで、結局のところアメリカ人お得意の物量作戦に過ぎないというわけです。
テスラ・ロードスター i-MiEVのバッテリーは200kgくらいだと言われていますが、テスラ・ロードスターは992ポンド(約450kg)と公表されていますから、重量比でi-MiEVのバッテリーの2.25倍ということになります。重量エネルギー密度に大きな差はないでしょうし、車体が普通のスチール製セミモノコック構造のi-MiEVに対してアルミフレームで軽量に作られているテスラ・ロードスターはトータルの車両重量もだいたい同じくらいですから、両者は条件的に比較しやすいと考えられます。
メーカー公称値では250マイル(約400km)となっているテスラ・ロードスターの航続距離ですが、アメリカの環境保護庁が認定している研究機関の試験結果によれば、221マイル(約356km)になるそうです。i-MiEVの10-15モードで160kmというデータをバッテリーの重量差である2.25倍にすると360kmになりますから、能力的にもドンピシャですね。結局、同種のバッテリーを用いている以上、どれだけ航続距離を伸ばせるかという問いの答えは、どれだけ多くのバッテリーを積むかで決まるということです。
ここから類推すれば、テスラ・ロードスターのバッテリーのコストもi-MiEVの2.25倍くらいではないかと見られますから、300万円×2.25=675万円くらいといったところしょうか。実際、18650形リチウムイオン電池の単価はノーブランドの怪しげなものなら数百円ですが、パナソニックなどちゃんとしたメーカーのものなら1000円くらいします。後者なら1000円×6831個=683万円といったところで、やはり非常に近い数字になります。マトモに考えればこうした数字は近いところに落ち着くものなんですね。
航続距離についても研究機関の試験結果とされる約356kmをi-MiEVの10-15モード160kmと大差ない条件と考えるのは良いとして、実走行でi-MiEV同様に半分程度目減りすると想定して178kmと考えるのは少々無理がありそうです。こうした単純計算では走行用モーター以外の消費電力も2.25倍に見積もっていることになるでしょう。なので何とも言い難いところではありますが、実質的な航続距離はせいぜい200km台前半くらいにとどまるのではないかと想像されます。(あくまでも想像です。)
ま、それでもi-MiEVに比べれば遙かに実用的な航続距離といえます。が、そもそもスペース効率に優れている角形の専用バッテリーを採用しているi-MiEVと違って18650形リチウムイオン電池はその名が示すように直径18mm、長さ65mmの円筒形でですから、無駄なスペースがそれなりに生じてしまいます。
テスラ・ロードスターが2人乗りのスポーツカーというパッケージングを採用したのは、バッテリーにかなりのスペースを喰われてしまったことも無関係ではないでしょう。こうしたスペース効率の悪さからして実用性が高いとはいえませんし、まして1000万円にもなる車両価格は私のような庶民にとって全く現実的ではありません。
また、これも繰り返しになりますが、充電器の能力が同じであればバッテリー容量が増えるほど充電時間も長くなります。そうした点でもやはりテスラ・ロードスターに充分な現実性があるとは言い難いところです。i-MiEVの急速充電と同じレベルで充電できたとしても、1時間以上の足止めになるのでは、ガソリンエンジン車などと同じ感覚で使える乗り物とはいえません。
テスラ・ロードスターの充電には「テスラ・モーターズ・ハイパワー・コネクター」なるものを使えば約3.5時間とのことで、メーカーが準備している充電器はi-MiEVの急速充電器よりかなり見劣りするものです。ま、i-MiEVを80%(実用上の満充電)まで30分で充電できる急速充電器はそれだけで800万円もします(それゆえ三菱自動車の販社にさえも現在のところ全く配備されていません)から、当然かも知れませんが。とはいえ、テスラのそれも高電圧大電流を要求するのは違いなく、一般的な家庭用電源で対応できるレベルではありません。
上述のようにi-MiEVとの比較から推定されるテスラ・ロードスターのバッテリー容量は定格で36kWhくらいになるでしょうから、日本の標準的な100Vの家庭用電源で充電するとしたら、少なくとも30時間くらいはかかるでしょう。最近はオール電化住宅などで200Vの契約をしている家庭も増えていますが、それでもその半分と見るべきです。なので、3.5時間で充電できるという「テスラ・モーターズ・ハイパワー・コネクター」を自宅で使えるようにするとなれば、現在の日本では業務用の特別な電力供給契約を結ばなければ対応できないでしょう。
以前、どこかのテレビ番組でこれを取り上げていたときのハナシによれば、アメリカの大金持ちの間ではこのテスラ・ロードスターをただ乗り回すだけでなく、自宅の屋根にソーラーセルを設置し、それで発電した電力で充電するのが自慢話のネタになるのだそうです。こういう大金持ちに限ってあまり思慮が深くなかったりしますから、「太陽エネルギーだけで走る究極のエコカーだ」などと無邪気に喜んでいたりするのでしょう。
ソーラーセルを構成する半導体シリコンの生産にどれだけ膨大なエネルギーが投入されるか、ノートPCに使えば1000台分くらいを賄えるリチウムイオン電池を生産するのにどれだけのエネルギーが投入されるのか、その廃棄処分ないしリサイクルにはどれだけのエネルギーが投入されるのか、そうしたLCA的な考え方は完全に排除し(というより、そういう考え方があること自体知らないかも知れません)、目先のエネルギー収支だけでイメージを膨らませている彼らは、ライフスタイルとしてその似非エコロジーを脳天気に楽しんでいるのでしょう。
日本の家庭用電源では1日で充電できないであろうテスラ・ロードスターの充電を太陽光だけ(つまり充電できるのは昼間だけ)で賄うということは、アホほど大量のソーラーセルを設置しているのか、あるいは何日もかけてゆっくり充電しているのか知りませんが、こういうのは「大金持ちの道楽」としか評しようがありません。
結局、電気自動車は内燃機関を搭載したクルマに駆逐されて100年余りを経た現代に至っても、まだ大金持ちの道楽の乗り物という立場に甘んじているわけですね。
(おしまい)
ガソリンエンジンやディーゼルエンジンといった内燃機関のエネルギー効率はそれほど高くありません。それは折角得られた熱エネルギーの大部分を廃熱として捨ててしまうからで、これらに比べれば電気モーターのエネルギー効率は数倍優れています。しかし、ガソリンや軽油のエネルギー密度はリチウムイオン電池と比べて桁が2つ違います。尚かつ非常に安価であるゆえ、誕生から百数十年を経た現在、他の動力源がことごとく淘汰されていった中で王者の地位を守り抜いてきたわけです。
この実力は伊達ではなく、この牙城を簡単に崩せると思うのは楽観的に過ぎると言わざるを得ません。「ハイブリッドカーは電気自動車が実用化されるまでの繋ぎだ」とする意見もよく聞こえてきますが、そういう人は恐らくケミカルバッテリーの性能を過大評価し過ぎているか、とんでもない技術革新が明日にでも起こるかも知れないという夢を追い続けているのでしょう。要するに現実をきちんと見据えていないか、そもそもそういう能力を欠いている人たちになるのだと思います。
初代プリウスが発売されてから今年で12年になります。もうそろそろガソリンエンジン車を代替し得る本格的な電気自動車が普及する具体的な目処が立っていなければ「繋ぎ」だとはいえなくなるでしょう。ハイブリッドカーが商品として成立する状態が何十年も続くのであれば、それはもはや一つの「時代」であって、「繋ぎ」と評価すべきものではありません。
前回ご紹介したように経産省のロードマップで目標とされている2030年も全く具体性を欠いたものでしかなく、本格的な電気自動車時代がいつになったらやってくるのか確実な予測は全く立っていない状態です。一方で、トヨタやホンダを中心にハイブリッドカーはこれからいよいよ車種を増やし、来年には日産もスカイラインで参入し、その存在感がさらに増していくような状況です。
余談になりますが、カメラの世界ではピントリングと距離計が連動するレンジファインダーが1932年にライカⅡで採用されて以降、レンジファインダー機が主流を成す時代が続きました。正立正像のアイレベルファインダーとクイックリターンミラーが採用され、本格的な一眼レフ時代が到来したのは1950年前後のことです。その後も信頼性などの面で報道カメラマンはレンジファインダー機を好んで使っていましたが、1958年にニコンFが登場すると、業務用カメラも一眼レフが圧倒する時代へ突入しました。レンジファインダー機の全盛時代は30年に満たないものでしたが、これを「繋ぎ」と評する人など一人もいません。
大衆メディアは「2009年は電気自動車元年」などと無邪気に盛り上がっています。が、それは日産のハイパーミニのように同程度の電気自動車が10年ほど前にも量産・市販されていた事実に全く気付いていないゆえの空騒ぎに過ぎません。そもそも、電気自動車は決して「新しいクルマ」ではありません。その歴史はガソリンエンジン車よりもさらに古いものなんですね。こうした事実も世間一般には全く知られていないからこそ「2009年は電気自動車元年」などという莫迦なフレーズが出てくるのでしょう。
ガソリンエンジン車が作られるようになったのは19世紀後半のことですが、電気自動車はそれよりも50年くらい早かったとされています。その明確な第一号は解っていません(それだけ古くからあったということです)が、1834年にはオランダで作られていたという説が有力なようです。世界で初めて100km/hを超えたのも電気自動車のほうが早く、1899年のことでした。あまり関係ありませんが、世界で初めて速度超過で警察に取り締まられたのも電気自動車だったといいます。
ル・ジャメ・コンタント ベルギー人のカミーユ・ジェナッツィが製作した この「ル・ジャメ・コンタント」は「決して満足しない」という意味だそうで、 60馬力のモーター2基をそれぞれ後輪に直結させていたそうです。 魚雷型のボディにはバッテリーを満載し、105.92km/hをマークしました。 19世紀にこれだけのスピードが出ていたのですから、 21世紀に作られたi-MiEVの最高速度130km/hなど驚くに値しません。 ガソリンエンジンが実用性や信頼性を高めていく以前の主流は電気自動車が担っていたというのが歴史の事実です。ついでに言えば、その端境期には電気モーターとガソリンエンジンのハイブリッドカーも製作されていました。
ローナー・ポルシェ 世界初のハイブリッドカーといわれるこのクルマは オーストリアの馬車メーカーだったローナー社の求めで あのフェルディナンド・ポルシェ博士が設計を担当しました。 モーターは慶應大学のエリーカ と同じホイール・イン方式です。 要するに、ガソリンエンジンは発電器を回すことに徹し、 走行時の動力は100%モーターによる直列式ハイブリッド ということになります。 しかし、当のポルシェ博士はハイブリッドではなく、 純粋な電気自動車の開発を望んでいたといいます。 自動車の黎明期には当然ですが大衆車など存在しませんでした。上記のローナー社も宮廷馬車の製造を請け負っていたようなメーカーで、商売相手は王侯貴族を中心とした上流階級に限られていました。ま、その黎明期はまだ馬車が主役でしたから、自動車は大金持ちの道楽みたいなものと見るべきでしょう。
実用性など皆無に等しくても新しモノ好きの大金持ちは喜んで買っていたようですし、航続距離が絶望的に短い電気自動車でも充分に商品となり得ていたのでしょう。要するに、実用性を求めるなら馬車に乗り、自動車に乗るのはスポーツとかレジャーといった遊びの感覚といったところでしょうか。
ガソリンエンジン車を発明したのはゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツの両者とされています。ニコラウス・オットーが発明した4サイクルエンジンは当時まだ充分な実用レベルに手懐けられておらず、液体燃料を気化したり点火したりといった技術がまだまだ洗練されていなかったんですね。それをダイムラーやベンツが改良し、車載動力源として利用できるようにしたというわけです。
ダイムラーとベンツは「自動車の発明者」と勘違いされる ことも少なくありませんが、彼等は「ガソリンエンジンを自動車の動力源として利用できるように改良した技術者」と見るのが正しい認識です。ガソリンエンジンは低速でのトルクがありませんから、発進時に合わせた減速比で固定していたのではスピードが伸びません。実用的なトランスミッションの開発なくして馬車や電気自動車に並ぶような速度での走行が難しかったわけです。
上記のローナー・ポルシェのようなハイブリッドカーも、要するにこうしたエンジンの出力特性を補うためのもので、実用的なトランスミッションが作られるようになると姿を消したわけですね。第二次大戦中にポルシェ博士はナチスの求めに応じて超重戦車を設計していますが、このときも同じ直列ハイブリッドが採用されています。その理由もまた総重量188トンにもなる重い車体とそれを駆動するための1200馬力にもなる大出力エンジンに耐えるトランスミッションを作ることができなかったということです。
こうしてガソリンエンジン車の実用性が高められ、信頼性も向上されていくと、その航続距離の圧倒的な差から電気自動車は一気に廃れました。見方を変えれば、航続距離の短い電気自動車が商品となり得ていた時代の自動車は大金持ちの遊びの道具というべき存在だったわけです。充分な航続距離を得たガソリンエンジン車の完成とその信頼性の確立を以て自動車は実用的な輸送手段となり、ガソリンスタンドなどインフラの整備とともに陸上輸送手段の主役に躍り出たといったところでしょうか。
(
つづく )
いま実用化されている2次電池を用いて、できるだけ航続距離の長い電気自動車を作ろうと思ったらリチウムイオン電池を選択するしかありません。が、i-MiEVのように普通の使い方で実質的な航続距離が80km程度と見られるレベルであってもバッテリーの重量は200kgにおよび、そのコストは300万円にもおよぶのではどうにもならないでしょう。重量のほうは目をつぶるとしても、バッテリーだけでベーシックカー2~3台分のコストというのでは一般消費者向けの商品として全くハナシになりません。
私もデジカメ用やノートPC用のリチウムイオン電池が寿命を迎えたりスペアが必要だったりしてそれだけ買い求めたことが何度かありますが、体積がマッチ箱の半分ほどでしかないデジカメ用の小さなリチウムイオン電池が数千円もしたり、ノートPC用に至っては数万円というレベルだったりします。十何年も前から量産され、携帯電話やデジカメやノートPCなどリチウムイオン電池がスタンダードになっている製品も数多く普及し、既に量産効果も出ているハズのこれがあまり安くならないのは何故かといえば、それは原材料が高価だからでしょう。
大衆メディアのなかにはパソコンや液晶テレビのように製造技術が進めばリチウムイオン電池もどんどん安くなり、数年後には現在の何分の一かにコストダウンできるのではないかと想像し、期待を寄せているようなところもあります。が、現在一般的に用いられているものと同じ構造のリチウムイオン電池のままであれば原材料コストが厚い壁となって、量産効果だとか合理化設計だとか歩留まりの向上だとか、そういうレベルでは決定的な解決にはならないでしょう。
何故リチウムイオン電池の原材料コストが高いかというと、それは正極に用いられるコバルト酸リチウムのコバルトが非常に高価なレアメタルであるという点が主な理由です。コバルトは銅やニッケルの生産時に副産物として微量に得られるものですから、供給量が非常に限られますし、銅やニッケルの生産量にも大きく左右されます。しかも、その生産量の半分近くをコンゴとザンビアという政情不安のある国で占められています。生産量そのものが少ないですから、有事には投機的な買い占めも入るなど価格が非常に不安定であるところも常々問題視されてきました。
現在、リチウムイオン電池のコストダウンは如何にこのコバルトの使用量を減らすか、あるいはコバルトを用いない新たな正極の実用化を進めていくかが大きな課題となっています。こうした課題は2次電池のようなエネルギーストレージに限らず、太陽光発電など様々な分野でもいえることですが、大規模なマーケットを見込む必要があるならレアメタルを使わずに済むよう、素材を吟味しなければならないという大きく重い足かせが加わるんですね。単に量産効果でコストダウンできるわけではありませんし、そもそも資源の量が限られていればそれを超えた需要に応じることなどできないないという現実を失念してはいけません。
今後のリチウムイオン電池に期待される新たな正極の素材としてはマンガンやニッケルなどの化合物があり、これらを用いたリチウムイオン電池もすでに実用化されてきています。が、まだエネルギー密度など総合的な性能ではコバルト酸リチウムを正極に用いたものに比べると劣っているようですし、自動車のように大変なエネルギー量を扱うとなれば、安全性の確保は慎重の上にも慎重を期す必要があります。これまでも何度となく事故を起こしてきた熱暴走などの問題も素材が変わればやり直さなければならない部分があるでしょう。ま、この辺は私も苦手な分野なので何ともいえませんが。
ちなみに、経済産業省は電気自動車の本格的な普及に向けたバッテリー性能の目標を纏めたロードマップを作成しています。
これを見ますと、2030年までに本格的な電気自動車を普及させる条件として重量エネルギー密度を現在の7倍、容量当たりのコストを現在の1/40としています。これらの目標設定はそれなりに妥当な線だと思います。本当にこのレベルの次世代バッテリーが作れるとしたら、本格的な電気自動車時代がやってくるのは間違いないでしょう。
が、問題は本当に2030年までにここまで凄いバッテリーが作れるかどうかです。実際、コストを2010年までに1/2にするという目標が立てられていますが、2010年の4月から個人向けの販売が予定されているi-MiEVのリチウムイオン電池は容量16kWhで300万円といわれています。つまり、18.8万円/kWhということになりますから、上図の「現状」(2006年当時)から全くコストダウンできていません。
およそ150年前に発明された鉛電池は改良が重ねられ、その度にエネルギー密度を高めてきたと思います。最新の鉛電池と一般的なリチウムイオン電池を重量エネルギー密度で比べてみますと、せいぜい3~4倍程度といったところでしょう。ここからたかだか20年くらいで現在のリチウムイオン電池のさらに7倍となる新型電池を作ることが本当に可能なのでしょうか?
リチウムイオン電池は、その基本的なアイデアが生まれてから具体的な実現方法が試行錯誤され、実際に市販されるようになるまでおよそ四半世紀かかりました。それが市販レベルの乗用車に応用されるまでさらに10年近くかかりました。現在の乱痴気騒ぎはそれからさらに10年を経ています。現在もいくつか次世代バッテリーとなるようなアイデアはありますが、それが本当にモノになるかどうかはまだ誰にも解りません。
電気自動車を巡っては常々こうした未来予想がなされてきましたが、いつも絵に描いた餅に終わってしまいました。経産省のロードマップもコスト半減という最初のステップが既に実現できそうにない状況ですから、2030年までにあのようなハイスペックな新型電池が実用化できると信じるのはかなり楽観的すぎるように思います。
仮に容量を大きくできたとしても、その分だけ充電時間が余計にかかったのでは充分な実用性を備えるようになったとは言い難いところです。i-MiEVのバッテリーを30分で急速充電できても、その容量が7倍になったら充電時間も7倍の3時間半かかるというのではやはり問題で、こうした部分も克服していかなければならない課題といえるでしょう。いずれにしても、電気モーターが内燃機関に代替し得る将来までの確実なロードマップなど全くできていないというのが現実です。
昨年の暮れ、日本経済新聞に「2009年は量産化された電気自動車が町中を走る“元年”になる」といった莫迦なコラムが載ったのを皮切りに、2009年を「電気自動車元年」とする人が増えています。結局、彼らは日産の電気自動車など量産・市販の前例を知らず、i-MiEVのスペックシートに掲げられている理想値通り本当に160km走ると信じ込んでこうした発想に至ったのでしょう。
未来の予測というのは本当に難しいことで、それに比べれば現状を把握することのほうが遙かに簡単です。しかし、それすらもマトモにできていない脳天気な人たちが現在の電気自動車ブームを創作しているというわけです。そして大衆メディアはこうした脳天気な記者達で埋め尽くされ、そんな彼らに
正しい認識を授けようとしたモータージャーナリスト池原照雄氏の見解 は黙殺されてしまいました。
私は以前にも「リチウムイオン電池で現在のガソリンやディーゼルに代替し得る実用的な自動車を成立させることは絶対に不可能だと確信しています」と述べましたが、それはリチウムイオン電池の性能も価格も現状では全く力不足で、コバルトを正極に使うのであれば資源の調達源にも大きな問題があるという現実を認識しているからです。こうした認識に立って冷静に考えてみれば、普通の人が普通に乗る自動車など現在のリチウムイオン電池では到底成立し得ないということがすぐに解るハズです。
日本の大衆メディアはリチウムイオン電池で走る電気自動車が近い将来に普及することを期待していますが、それは不勉強ゆえの夢想に過ぎません。彼らがシッカリ勉強してマトモな記事を書けるようになることなど殆ど期待できませんが、もし彼らが改心する日が来るとしても、それは現実的な電気自動車が成立する日より遙かに遠い未来のことなのだと思います。
(
つづく )
追記:i-MiEVのリチウムイオン電池は正極にマンガン酸リチウムを用いたものでした。このマンガン酸リチウムは容量が小さい(コバルト酸リチウムの正極を用いたものに対して理論値で約54%、実行値で約97%)だけでなく、保存特性が悪くサイクル寿命が短かったことなどから自動車用リチウムイオン電池には不向きとされていたものです。 こうした特性の悪さは主に電池中に残された水分と電解液が反応して発生するフッ酸によって正極のマンガンを流出させてしまうためで、これを捕捉する物質を添加したことで解決されたようです。とはいえ、i-MiEVのそれに関してはまだ価格的なメリットに繋がっていないようですが。 ただ、結晶構造が安定しているため過充電による熱暴走が起こりにくいという特性ではコバルト酸リチウムよりずっと有利なようです。今後しばらく電気自動車向けのリチウムイオン電池はマンガン酸リチウムを正極に用いたものが主流を担うことになりそうです。
リチウムイオン電池のコストだけで300万円にもなるとされる非常に贅沢なi-MiEVですが、東京電力などで行われてきた実証走行試験では期待されるほどの航続距離が得られていません。1回の充電で走れる距離は10-15モードで160kmとメーカーは発表していますが、実際の走行では80kmくらいが目安となるようです。これではごく限られた用途にしか使えないでしょう。
私の場合、会社までの往復でほぼ60kmですから、通勤の足には使えるでしょうが(実際は電車通勤をしていますが)、郊外や地方都市にお住まいの方などはそれすら出来ないというケースも少なくないと思います。いくら139万円の補助金が支給されて320万円ほどで買えるとしても、こんな性能で実際に買おうと思う奇特な人はそう多くないでしょう。急速充電設備もまだ全く整備されていませんし。
i-MiEVに充電する三菱自動車の益子社長 三菱自動車本社ショールームにある充電器(高砂製作所製)で メディア向けのデモンストレーションが行われました。 これを使えば80%(実用上の満充電)まで30分で充電可能とのことです。 が、現在は三菱自動車の直系販社にすらこの急速充電設備は 1台も配備されておらず、3相200Vの充電設備(満充電まで7時間)もなく、 一般家庭と同じ100Vの充電設備(満充電まで14時間)しかありません。 (三菱自動車の販売会社の充電設備一覧はコチラ ) ベースは4WDの最高グレードでも160万円に満たない軽自動車ですから、いくら電気代が安く済むといっても差額の160万円あれば現在の相場で13,000Lくらいのガソリンを買うことができます。ベース車の10-15モード燃費は19.2km/Lですが、実走行ではこの40%減と見積もって11.5km/Lで計算しますと、13,000Lのガソリンで15万kmくらい走れることになります。これは普通の人が普通に乗る新車1台分の生涯走行距離をかなり上回ると見て良いでしょう。
i-MiEVのランニングコストの安さを強調したところで、イニシャルコストの差額を相殺できる見込みなど全く立たないと考えて間違いありません。もちろん、これは139万円という高額の補助金を活用した状態でのハナシです。電気自動車にご執心の大衆メディアはこうした点を考慮せず、ただひたすらランニングコストが安いという点を強調しがちです。しかも、それとて何度も述べてきましたようにガソリン税などの租税が免除されているという重要なポイントを完全にスルーしての偏向報道です。
例えば、先月17日付の読売新聞の社説でも「割安な深夜電力で充電すれば、必要な電気代は1キロ走行につき1円ですむ。東京―大阪間を1000円で往復できる計算だ。」としてi-MiEVに期待を寄せていました(この1kmにつき1円という計算は
以前 検討しましたように正しいとはいえません)。この論説委員はi-MiEVで東京~大阪間を往復するとどんな目に遭うのか想像できる能力がないようです。
実際にi-MiEVで東京~大阪の往復をするなど現代人の普通の感覚では絶対にあり得ないことです。そのためにわざわざ休暇を取って趣味としてやるならハナシは別ですが、普通の人が普通にやるようなことではありません。具体的に検討してみましょうか。
往復1000kmを東京電力の営業車で目安とされた航続距離80km毎の充電で走破するとしたら、途中で最低13回の充電が必要になります。もちろん、現状ではそんなインフラなど整備されていませんから、高速道路会社にお願いしてパーキングエリアなどで特別に充電させてもらうという格好がせいぜいでしょう。しかし、そういうところにある100V電源では実用上の満充電である80%までの充電に11時間強かかりますから、それを13回繰り返すと充電時間だけで6日を超えます。
実際の走行時間をこれにプラスすると、全行程で1週間くらいのスケジュールを組まなければならないというわけですね。よしんば、メーカー公称値として採用しているバッテリー容量を100%使い切って160km走るという数字を用いたとしても、充電時間だけで約4日かかります。i-MiEVで東京~大阪を往復するなど全く現実的ではないという状況に変わりないわけですね。
余談になりますが、江戸時代には樽廻船といって上方から酒荷を江戸まで輸送する船が鮮度を落とさないよう、そのスピードを競っていたそうです。イギリスと中国の間で茶葉の輸送速度を競ったティークリッパー(カティーサークなどが有名ですね)の日本版といったところでしょうか。幕末の平均所要日数は片道10日程度だったといいますが、潮流を上手く利用した最速記録は寛政2年(1790年)に西宮から江戸まで僅か58時間で渡海したというものになるようです。
樽廻船は製造にも運用にも全く化石燃料を用いず、パーフェクトなカーボンニュートラルといって良いでしょう。走行時にだけCO2を排出しないi-MiEVを現状で走らせれば、200年以上も前の船舶に環境性能だけでなく、条件によっては所要時間でも劣ってしまうことがあるというわけです。
将来的に充電スタンドなどのインフラが整備されたとしても、航続距離が伸びなければ充電回数は変わりませんから、長距離移動で現実性が乏しい状況に変わりありません。30分で急速充電できたとしても、それを13回繰り返せば充電時間だけで6時間半です。同じく電気だけで走る新幹線は常に外部から電力を供給されていますから、i-MiEVが充電のために足止めされている時間で東京~大阪を往復できてしまいます。
また、高速道路で急速充電ができるようになったとしても、1時間弱走っては30分の休憩という繰り返しとなると、煩わしくて私は願い下げです。もちろん、急速充電ができない現状では1時間弱走る毎に半日足止めとなりますから、全くの論外です。
電気モーターがエネルギー効率に優れているのは確かですが、現状では外部から常に電力供給を受けられる鉄道での利用が現実的なんですね。常に外部から給電できるなら補助金のような下駄を履かせることもなく、普通に採算が取れるシステムを作って運用することが可能です。
電気自動車がこの世に誕生してから常にネックとなってきた航続距離の短さは今日に至ってもガソリンやディーゼルを代替するレベルには程遠いものです。それは要するに電気エネルギーを高密度で尚かつ安価に、迅速に蓄えておける手段が確立されていないからに他なりません。
(
つづく )
オートバックスなどのカー用品店へ行きますと、シガーライターソケットに繋いで使えるアイテムが山のように売られています。速度違反の取り締りで使われる電波を感知してそれを知らせるレーダー探知機の類(ソーラーセルを搭載して電源不要としているものも少なくありませんが)から、手元や足元を照らすイルミネーションの類、マイナスイオンの発生器、香りを炊いて運転しながらアロマテラピーができる(そんな必要があるのか甚だ疑問ですが)などなど、実に様々です。
私の場合、愛車にはディーラーオプションで装着したETC車載器のほか、ドライブレコーダー、
車載コンピュータのモニタリングシステム 、あまり使いませんがワンセグチューナーもDIYで装着しています。標準装備のカーナビやカーオーディオなども含めますと、走行には直接関係のない装備でもそれなりの電力を消費していると思います。さらに、夜間の灯火類や雨天でのワイパーの使用など走行に必要な電装品による電力消費も加わればバッテリーの負担も上がっていくものと思います。
普通のガソリンエンジン車などは元々積んでおけるエネルギーの量が非常に多いですから、電気を沢山使っても航続距離に大きな影響は出にくいものです。が、限られたエネルギー搭載量でひたすら効率アップに傾注し、航続距離を少しでも稼ごうと涙ぐましい努力で遣り繰りしている現在の電気自動車では状況が大きく違ってきます。現状で考えれば娯楽装備や快適装備のため従来のように無頓着な電気の使い方をすれば、航続距離にも顕著に影響することになると思います。
しかも、今のところは充電施設が皆無に等しい状態です。ガス欠ならJAFのロードサービスで対応してもらえます(会員なら燃料代の実費だけで済みます)が、電気自動車の充電にはそういう救援も期待できないでしょう。となればレッカー移動が必須でしょうから、非常に面倒なことになってきます。こうした事態に陥らないよう、普段からバッテリー切れにはとにかく神経を尖らせておかなければならないわけで、やはり電気自動車は普通のガソリンエンジン車などのような感覚では付き合える状況ではありません。
仮に充電インフラが整ってきたとしても、i-MiEVのような少ないバッテリー容量でさえ80%(実用上の満充電)まで急速充電でも30分かかってしまいます。将来的にバッテリー容量が2倍3倍と増えていけば、充電設備もより大きな電流を扱えるものにグレードアップしていかなければその分だけ時間も長引いてしまうことになるわけですね。
そもそも、大電流を扱うとなればそれだけ危険度も増していきます。また、バッテリーのエネルギー密度が高まるほどその充放電のマネジメントもシビアになるでしょうから、ハナシはそう単純なものではないと思います。少なくとも、ケミカルバッテリーが現在のような方法で運用される限りにおいては、将来に渡ってもそう簡単にガソリンやディーゼルのような感覚で付き合えるようにはならず、根本的な解決策にはなかなか行き当たらないかも知れません。
ならば、充電速度を上げるのではなく、初めから充電済みのバッテリーへ丸ごと交換してしまえば良いのではないかと思われるでしょう。そういうアイデアはかなり古くから提唱されていましたし。しかしながら、i-MiEVのような少ない容量でさえ約200kgという非常に大きな重量がありますから、その交換にはリフトなどの大仰な設備が必要になるでしょう。
実際に
ベタープレイス というアメリカのベンチャー企業がバッテリーの交換作業を自動的に行えるシステムを開発しています。また、
日産とルノーはこのシステムを採用し、イスラエルで実用化に向けた覚え書きを交わした旨、正式にプレスリリース もされています。
デュアリスベースの電気自動車と ベタープレイスのバッテリー交換システム 日産の電気自動車がバッテリーをリース契約とする計画なのは こうしたシステムでユーザーが一つのバッテリーを占有せず、 残量が少なくなってきたら充電済みのものに交換する といった方式を検討しているからかも知れません。 ただですね、この方式も多くのクルマが電気自動車に置き換わって数を沢山こなさなければならなくなったら、かなり大変なことになりそうな気がします。実証実験(その模様は
コチラ の動画でご覧頂いたほうが解りやすいでしょう)ではかなりスマートに完結しているように見えますが、車両のフロア下にあるバッテリーをゴッソリ取り外して充電ステーションで充電済みのそれと交換するわけですから、その巨大なバッテリーを沢山ストックしておくヤードの確保と、交換システムとの連携についても考慮しなければなりません。
それに加えて、軽自動車から大型車まで同じサイズのバッテリーで対応できるわけがありませんから、容量の異なる何種類かの規格を設け、それぞれのバッテリーをストックしておかなければならないわけですね。リンク先にある映像のような簡易的なコンベアシステムだけで済むわけがなく、オートメーション工場にある無人物流システムみたいな大げさな施設が必要になってくるのではないかと懸念されます。
また、バッテリーは現状で数百kgレベルの重量がありますから、これをフロア下からゴッソリ取り外せるようにするとなれば自重を支えられる構造も持たせたなければなりません。さらに、車体とは数カ所のロック機構で固定されますから、全体が変形してしまわないように相応の剛性も確保しなければならないでしょう。
ちなみに、i-MiEVもバッテリーの搭載はフロア下からになりますから、バッテリーASSYには自重を受け持つフレームが設けられています。が、廃車まで原則としてバッテリー交換は想定していませんので、取り外し時には車体側のブラケットとバッテリーASSYのフレームとの相対変形量を20箇所計測してから行うことになっています。要するに、バッテリーASSYは自重を支えるだけで、剛性の確保は車体側に依存しているということでしょう。
バッテリーパックそのものが充分な強度を持つようにするとなればその分だけ重くなり、体積も増えることになるでしょう。ただでさえエネルギー密度が非常に低いケミカルバッテリーですから、車載するにも交換用のそれを沢山ストックしておくにもより大きな空間を必要とすることになり、条件としては不利になるでしょう。
例えば、ベタープレイスのカセット方式は積荷をコンテナに積み込んでコンテナごと載せ替えるようなものだとすれば、i-MiEVのようなパターンは積荷をパレットでバン型トラックに積み込むような格好に相当するといったところでしょうか。積載量としては後者のほうがずっと有利になります。
ガソリンや軽油は非常にエネルギー密度が高い上に液体ですから、ガソリンスタンドの地下にあるタンクの構造に合わせて隙間なく貯蔵しておけます。が、巨大なカセット式のバッテリーパックを種類別に数多くストックしておくにはそれなりに大きな空間が必要になります。ガソリンスタンドを模様替えして代替できるようなシステムにするのはコスト面も含めて非常に難しいのではないかというのが私の個人的な感想です。
それ以前に、バッテリーの規格化自体がすんなりいくとも思えません。寸法や搭載方法の規格化はクルマの構造やパッケージングそのものに非常に大きな影響を及ぼすハズです。軽自動車から7人乗りのミニバンなどに至るまでメーカーを跨いで規格を整えていくのはそう簡単なことではないと思います。
(
つづく )
三菱自動車のi-MiEVは「1回の充電で160km走れる」と宣伝されています。が、これは実際のパワーマネジメントではあり得ないバッテリーの使い方をした場合の数字です。ユーザーに引き渡される状態ではバッテリーの寿命を延ばすため、容量の80%しか用いないとのことですから、10-15モードでも128km程度しか走らない計算になります。もちろん、こうした走行パターンと実走行では大きな差が生じるのが普通ですから、現実的にはもっともっと航続距離は短くなり、宣伝されている160kmとは大きくかけ離れた数字になるものと考えられます。
実走行の燃費はドライバーの意識や技量、道路状況など様々な要因で大きく変わるのは言うまでもないでしょう。私のケースについてはこれまでも何度となく述べてきましたが、クルマの特性を充分に理解してその実力を引き出すようなドライビングに徹した場合とそうでない場合とで結構な差が出ます。
具体的には、2代目プリウスの10-15モードで35.5km/Lとなっているカタログ値に対し、かなり本気の省エネ走行(といっても私の技量の範疇ですが)で30km/L前後(10-15モードに対して約15%減)、省エネを意識しながら苦にならない程度の走り方で26km/L前後(約27%減)、全く意識しなければ22km/L前後(約38%減)といった感じです(アイドリング状態が増える冬場や、あまり頑張りようがない高速道路などは除きます)。
私の経験上、プリウス以外でも10-15モードと実走との間に生じる差は省エネ走行に徹して20%強、普通に走れば30~40%くらいといった印象です。こうしたことから類推しますと、バッテリー保護のため20%のマージンが設けられ、デフォルトでも10-15モードで128km程度まで目減りすると見られるi-MiEVを普通の人が普通に実走させると70km台後半から90kmくらいが良いところではないかと推測されます(あくまでも推測です)。
東京電力向けi-MiEV i-MiEVは昨年から東京電力の実証走行試験車として 営業用に使用されてきました。 i-MiEVもプラグイン・ステラも先行テストとして企業に貸し出されてきたようですが、営業車としてi-MiEVを使用してきた東京電力の場合、通常走行での航続距離は80km程度が目安だったといいます。電装品などの使用を極力控えたり、このクルマ固有の省エネ走法をマスターすればもっと伸びるとは思います。が、逆に空調や諸々の電装品の使用状況によってはさらに目減りもするでしょうから、安心して乗れる距離は条件次第でもっと短くなる可能性もあります。
東京電力向けハイパーミニ 約10年前からリチウムイオン電池車を市販してきた日産ですが、 リチウムイオン電池車として日本初の専用車で型式認定を受けた ハイパーミニも東京電力で実証走行試験車を務めました。 ま、東京電力は昔から電気自動車が世に出る度に 営業車として導入してきましたから、そういう意味でも 今回のi-MiEVが特別な存在とは見なしがたいものがあります。 中でも特に問題なのは冬場の暖房です。以前から何度も述べてきましたように、ガソリンおよびディーゼルエンジン車はエンジンの冷却水の熱を利用した温水暖房を採用しています。が、電気モーターやその制御系の発熱量はこれらの発動機には全く及ばず(その分だけエネルギー損失が少なく、効率が優れているともいえますが)、現状では暖房に電気ヒーターを用いなければなりません。ご存じのように、ジュール熱(電気抵抗がある物質に電流を流したときに生じる熱)を利用した普通の電気ヒーターは効率が悪く、消費電力が非常に大きくなってしまいます。
三菱自動車では効率の優れたヒートポンプなども検討していたようですが、現状では自動車用のそれが存在しないため(自動車用エアコンのサプライヤーとしては最大手のデンソーも製品化の計画はないといいます)、これを採用するとなればゼロからの開発ということになります。それではただでさえ高価な電気自動車の価格をさらに押し上げてしまうことになるため、今回は見送られたといいます。
結局、i-MiEVは電気ヒーターで加熱した温水を循環させる方式を採用し(たぶんベースとなったガソリンエンジン車のヒーターマトリクスを流用したのでしょう)、冷房と暖房が同時に作動しやすいフルオートエアコンとはせず、マニュアルエアコンを採用したとのことです。が、これもやや詭弁のように思えます。マネジメントのやり方や諸々のチューニング次第でフルオートでも効率改善はできたと思います(実際、3代目プリウスはそうした部分にもメスを入れて効率改善を図っています)が、コストとの兼ね合いもあるのでしょう。
あるいは、空調の利用方法を完全にユーザーへ委ね、余計なクレームを回避しようとしていると考えるべきでしょうか? エアコンの効き具合については人によって感じ方に差がありますから、「効率を重視したせいで効きが悪い」だの「普通に効かせるとエネルギー消費が大き過ぎる」だのと人によって異なる感覚で評価されるものです。マニュアルにしておけば「使い方が悪い」といった方向で言い逃れもできそうですが、下手にフルオートにしてしまうとそれも難しくなるでしょう。ま、少々穿ち過ぎかも知れませんが。
こうした空調よりも直接的に乗員の身体を暖めるシートヒーターのほうが効率が良いため、i-MiEVはこれも装備することでエアコンによる暖房を抑えめにしてもあまり寒く感じさせないような工夫をしているようです。とはいえ、これらはどちらかというと小手先の対処法でしかなく、決定的な解決策とは言い難いところです。
実際、三菱自動車がi-MiEVで行った実走行試験では
暖房時に最大で40%も航続距離が低下するという結果 が出ているそうで、冷房よりもさらに大きなエネルギーロスになっているとのことです。私にとって最初の愛車であるユーノス・ロードスターは冷房を効かせるとかなり燃費が悪化しましたが、それでもせいぜい十数%くらいでしたから、この40%という大幅ダウンは決して軽視できるものではないでしょう。
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つづく )
三菱自動車が目指している「ユーザーの負担額が200万円を切る」というレベルを実現できれば、i-MiEV程度の電気自動車でもシティコミューター的な近距離の移動には何とか使えそうですし、ガソリン税などの租税が免除されている分だけランニングコストも抑えられますから、そこそこ売れるようになるとは思います。が、こうした補助金や優遇税制で「おんぶにだっこ」状態のクルマを普及させるのは限度というものがあります。もし、無理矢理ゴリ押しして沢山売ってしまったら、それはそれで問題です。
非常に極端なハナシになりますが、仮に1台当たりの補助金をi-MiEVと同じ139万円として日本中の乗用車(2008年末現在で軽自動車を含むと約5,755万台)を全て電気自動車にするとなれば、支給しなければならない補助金の総額は80兆円を越え、日本政府の一般会計予算における歳出1年分に迫ります。クルマに乗らない人も赤ん坊も含めて国民1人当たり約63万円もの負担を強いられることになってしまうわけです。
「若者のクルマ離れで新車が売れない」などと騒がれている昨今ですが、2008年の乗用車の新車販売台数は軽自動車を含めておよそ480万台でした。これに1台当たり139万円の補助金を与えていたら乗用車だけでも1年間に6兆7000億円近い国費(国民1人当たり5万円超)を投じなければならず、およそ現実的とはいえません。139万円という高額の補助金はi-MiEVの初年度計画1400台に対して支払われる約20億円という規模だから許容されるハナシで、この規模が拡大すればするほど財源の確保が難しくなります。
加えて前回にも述べましたように、電気自動車が普及すれば当然のことながらガソリン税などの税収も落ち込みます。こうしたことを考え合わせれば、現在のように台数がごく僅かだからこそ電気自動車の特別扱いも許されるわけです。現状における電気自動車はいわば
「みそっかす」 そのものというべきでしょう。こんなレベルで本気の普及を目指すとなれば、財政的に支えきれなくなるのは火を見るよりも明らかです。つまり、こうした電気自動車を巡る現在の普及政策は、ありがちなイメージキャンペーンの域を出ていないということですね。
電気自動車の本格的な普及を目指すに当たって補助金と決別できないようであれば、クルマを所有せず、普段はクルマと直接関係のない暮らしをしている人たち、即ちクルマを所有して乗り回している人よりも遙かにエコな暮らしをしている人たちにも大変な負担を押しつけることになります。こんな傲慢で理不尽な政策は許されないでしょう。
本当に環境保護を優先したいのであれば、公共交通機関の充実した大都市圏にあっては脱乗用車社会を目指すべきでしょう。電気自動車に買い替える人ではなく、クルマそのものを手放す人こそ優遇されるような制度を設けるべきなのです。
そもそも、「走行中にはCO2を出さない」などといって電気自動車を「エコカー」として持ち上げていますが、本当に環境負荷の小さい乗り物なのかどうかを運用時に直接生じさせる環境負荷だけで論じるのは全く以てナンセンスです。やはり資源調達から最終処分に至るまでのライフサイクル全般を通じた環境負荷の評価、即ち「LCA」を検討しなければ、本当に環境に与える影響が小さい乗り物なのか否かを結論づけるべきではありません。
また、私は個人的にCO2温暖化説に対してかなり否定的な立場ですので、CO2の排出量が小さいからといってそれが環境負荷の小さい乗り物だとは考えません。逆に、日本の電力供給の約1/3は原子力発電によるものですから、日本で電気自動車を走らせれば、そのエネルギーの約1/3は間接的に核廃棄物の排出を伴います。こうした状況を勘案すれば、本当に「エコ」といえるのか、
「事実上1/3は原子力で走っているクルマ」 を本当に「エコカー」と呼んでも良いのか、非常に大きな疑問を感じます。
i-MiEVの製造ライン i-MiEVの生産は岡山県の水島製作所で行われており、 量産第1号車のロールアウトは今年6月4日だったそうです。 当然のように地元の岡山県庁へも8台納入されるそうです。 電気自動車が抱える数多くの弱点の中でも特に普及を阻む大きな要素は非現実的な価格の高さと並んで「航続距離が恐ろしく短い」というところにあり、それは昔も今も変わりません。最新の電気自動車といえる三菱自動車や富士重工のそれもモーターの効率アップや回生ブレーキなどマネジメント面の向上は見られますが、その航続距離はi-MiEVの160km、プラグイン・ステラの90kmに過ぎません。しかも、これらは10-15モード走行パターンによるものですから、実走行での航続距離はもっともっと短くなってしまいます。
それ以前に、i-MiEVの160kmというスペックは些か不適正で個人的には詐欺的ではないかとさえ思います。というのも、この航続距離はバッテリーを100%充電し、100%使い切った場合の数値になるからです。しかし、実際のところi-MiEVはバッテリーの寿命を延ばすための保護として、20%程度のマージンが設けられたパワーマネジメントがなされているんですね。具体的な内容はよく解りませんが、一般的にリチウムイオン電池は満充電や過放電にすると電極の劣化が早まるといいますから、8分目で自動的にそれ以上の充放電をしないような格好になるのだと思います。
いずれにしても、スペックシート上はバッテリーの容量をフルに使った状態で160kmとなっていますが、実際の運用上はその80%しか使えないという仕様になっており、その状態では10-15モードでも単純計算で128kmくらいしか走らないというわけです。端的にいえば、スペックシートに書かれている航続距離は実用上あり得ないバッテリーの使い方をした場合になるわけで、数字を良く見せかけようとするありがちなトリックといわざるを得ません。
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つづく )
最近、大衆メディアが大いに持ち上げている電気自動車ですが、
以前 にも述べましたように日産自動車は12年も前に市販車として世界初のリチウムイオン電池車を発売していました。極めて実験色の強い内容でしたが、彼らはその後も数年間、毎年のように電気自動車を単発的に市場投入してきました。そのときの大衆メディアはこれを大きく取り上げることもなく、世間一般にもそうした動きは全くといって良いほど知られていなかったと思います。
現在の話題の中心になっている三菱自動車の
i-MiEV(アイミーブ) や富士重工の
プラグイン・ステラ といった軽自動車ベースの電気自動車は先月下旬からデリバリーが始まったそうですが、従前から電気自動車の市販に積極的だった日産は2000年に発売したハイパーミニに続いて今回も専用車を仕立て、昨日(8月2日)発表しました。
NISSAN LEAF 電気自動車もインバータやモーターなどから熱は出ますが、 内燃機関のそれとは比べものにならないのは言うまでもありません。 日産の新しい専用車のフロント開口部はバンパー下に小さくあるだけで、 放熱をあまり大々的にやる必要のない電気自動車らしい雰囲気ですね。 ルーフからテールに至る全般的なフォルムはティーダに似ていますが、 ショルダーラインの処理などはマーチに通じる印象です。 このリーフもi-MiEVと同じく航続距離が160kmとされています。 要するに「100マイル」がひとつの基準ということなのでしょう。 この日産リーフの発売は来年末とのことで、まだ少し先のハナシになります。が、既に先月下旬に発売されたi-MiEVはファーストロットとして49台、富士重工のプラグイン・ステラは3台が納入されるそうです。いずれも地方自治体や日本郵政グループ、東京電力やローソンなどの企業になり、i-MiEVの場合は個人向けの発売を来春としています。
が、個人でコレを購入するとしたら、それはスペックシートに謳われている160kmという航続距離が本当に得られると信じている酔狂なお金持ちくらいでしょう。この航続距離の表示はやや詐欺的ですから(詳しくは次回以降で)、マトモにクルマの性能を評価できる人の多くは相手にしないと思います。
以前から何度も述べていますように、メディアは電気自動車が近い将来を担うクルマとでも言わんばかりの騒ぎぶりですが、リチウムイオン電池の性能や価格に劇的な進歩があったわけではありません。なので、既に10年以上前に存在していたリチウムイオン電池車から現在のそれまで劇的な進歩があったわけでもありません。電気自動車を取り巻く状況はメディアなどの「期待感」と政府などから支給される「補助金の額」以外に大きな変化があったとはいえないのが実情です。
電気自動車を取り巻く環境はインフラ面も問題だらけですが、それを度外視してもメーカー単独での普及など絶対に不可能です。例えばi-MiEVの場合、ガソリンエンジンなら最上級グレードでも160万円弱の軽自動車ですが、それが電気自動車になれば300万円も上乗せされるわけです(その殆どがリチウムイオン電池のコストと見られます)から、そんなクルマを喜んで買う物好きな人など滅多にいないでしょう。
日産の場合、車両本体にはベラボウに高価なリチウムイオン電池を含まないカタチで販売し、電池そのものはリース契約とする独自の販売方式を検討しています。電池のリース料と電気代がガソリン代より安く済むようにとの青写真を描いているようですが、それとて道路特定財源となるガソリン税が免除され、かなりの下駄を履かせた状態だからこそ成り立つハナシです。
将来、本当に電気自動車が普及し、ガソリン車やディーゼル車が減少するとしたら、当然のことながら税収も減少します。が、その状態が放置されることはないでしょう。電気自動車が増加した暁には電気自動車にもランニングコストに係る何らかの方法で課税するか、別のところにしわ寄せが行くか、いずれにしてもこのままでは済まなくなるのは間違いないでしょう。
結局、政府やその外郭団体、地方自治体などの補助金を欠かすことができず、なおかつガソリン税のようにランニングコストに係る租税も免除され、上述のように自治体や企業などを中心としたタイアップである程度まとまった台数の販売が見込めなければ、過去に現われては消えていった電気自動車たちと同じ末路を辿るのは確実です。
補助金抜きだとほぼ460万円になるi-MiEVの場合、今年度の生産台数は1400台を予定しているそうですから、こんな少量生産では開発費の償却もおぼつかないでしょう。零細なバックヤードビルダーの商売ならばいざ知らず、三菱自動車レベルでこの台数ではそう簡単に黒字にできないと思います。もっと規模を拡大して何年かかけてモノになるかどうかといったところでしょう。が、それも「補助金ありき」で考えなければ成功の見込みなど万に一つもありません。
三菱自動車の益子修社長はi-MiEVの発売に当たって「2010年代半ばまでに顧客の負担額が200万円を切るレベルを実現したい」と語っていましたが、「顧客の負担額」と断っているということは、要するに
補助金抜きでの勝負など初めから諦めている ということです。やはりメーカー単独での普及など絶対に不可能というわけです。
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つづく )
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まとめ