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酒と蘊蓄の日々

The Days of Wine and Knowledges

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チタンの耳かき

近年はCGを用いたアニメの製作方法が多用な表現を可能にし、日産ノートのテレビCMにも起用されて話題になった『The World of GOLDEN EGGS』のように先に音声を収録することで声優が自由にアドリブできるという「プレスコアリング」略して「プレスコ」と呼ばれる製作手法も増えてきました。

かつて、プレスコはディズニーアニメのミュージカル的な演出など、音楽に合わせてキャラクターが歌ったり踊ったりするようなシーンに用いられる程度でした。スタジオジブリの『おもひでぽろぽろ』は今井美樹さんと柳葉敏郎さんを声優に起用し、手間をかけてプレスコで製作されましたが、「キャラクターの顔までわざわざ役者に似せるくらいなら実写でも良かったのでは?」などという声も上がったものです。

アニメーターが原画を手描きする従来のアニメにおいてプレスコは猛烈な手間がかかり、製作費もマンパワーも相応に要求されます。が、CGならモデリングしたキャラクターを自在に動かせますから、低予算でマンパワーがなくても容易に用いることが可能になったわけですね。

従来のようなアフレコでは声優が映像に合わないことを言ったりタイミングを外したりすれば即刻NGとなり、アドリブも殆ど不可能でした。が、映像を後から製作するプレスコなら好きなタイミングで好きなことを言えますから、ノリで面白いことを言ってみたり、微妙な間の取り方なども役者に委ねることができます。

特に会話などのやり取りはお互いの呼吸もありますから、アニメーターが計算したとおりのタイミングで展開する従来のアフレコでは難しかった表現も容易になります。微妙な間合いが醸し出す雰囲気はプレスコでないと表現できないというケースも多々あるでしょう。

特に「脱力系」と呼ばれる『The World of GOLDEN EGGS』のようにコミカルなアニメでは微妙な間の取り方が面白さに大きく影響することがありますから、プレスコというアドリブし放題の手法を用いた作品は今後も様々なカタチで試みられていくのではないかと思います。

またぞろ前置きが非常に長くなって恐縮ですが、ここからが本題です。『Peeping Life』という脱力系プレスコアニメにチタン製の耳かきをプレゼントされたことを自慢するエピソードがありまして、ま、このハナシ自体は私のツボにハマったわけでもないのですが、何故か「チタンの耳かき」というアイテムについては妙に引っ掛かってしまいました。

そういう商品があるということは容易に想像が付いたのですが、「具体的にどんなモノがあるのだろう?」と思ってネットでザッと調べてみましたところ、意外に多かったのがスパイラルタイプでした。先端の方に螺旋状のリブが設けられ、それで掻き出すという方式ですね。

私もステンレスワイヤー製や硬質ラバー製など、いくつかスパイラルタイプを試してきましたが、掻き取るというより絡め取っている感じが個人的には今ひとつで、オーソドックスなスプーン状のものが好みです。そうしたオーソドックスな形状のチタン製耳かきも存在するのですが、ただチタンというだけで値段が高い割にコレといった特徴もなく、「こんなモノなら自分で作れるのでは?」などと思ってしまいました。

最初は本気で作るつもりなどなかったのですが、これまで何本となく耳かきを取っ替え引っ替えしても納得のいく一本に巡り会えなかったこともあり、「試しに作ってみようか?」という気分が何となく盛り上がってきました。

とりあえず、入手しやすい丸棒から削り出すとして、どのくらいの太さが良いかを検討しました。私は手が大きいので、あまり細いと持ちにくくなりますが、かといって太くなるほど削る工程が大変になります。色々検討した結果、手持ちの耳かきの中で最低限このくらいの太さは欲しいと思った5mmΦに決めました。

5mmΦのチタン丸棒はネット通販で容易に入手できました。私が購入したものは300mmで760円(税込み・送料別)です。長さも色々検討して150mmくらいが丁度良いと考えていましたので、300mmあれば2本分になります。ま、2本も作るつもりはありませんでしたが、とりあえず真ん中で切断しましたので、1本分の材料費は380円ということになりました。

最初はデザイン画でも描いて、それに近づけるように加工してやろうかとも思いましたが、工具も限られたものしかない中であまり工数が多くならないような工夫をしながらデザインするのは経験がないだけに却って難しそうな気がしました。また、実際に材料と格闘していくうち段々しんどくなってきて手抜きをしたくなることもあります。デザインに凝りすぎて挫折してしまうより、「作りながら適当に形を整えてやればいいや」と思い直しました。

そうと決まれば、とにかくヤスリで削り倒すだけです。

金工用ヤスリはニコルソンを愛用するようになってカレコレ10年以上経ちますが、切れ味の良さ、切削面の荒れにくさ、目詰まりのしにくさ、耐久性などを総合的に評価しますと、これ以外にはバローベくらいしか良い品を知りません。ま、職人さんが目立てしたような特別なものになるとよく解りませんが、ホームセンターなどでも比較的容易に入手できるものの中では、やはりニコルソンが一番無難ではないかと思います。(現在一般に流通しているブラジル製は以前ほどの品質が維持されていないようですが。)

で、完成した手作りチタン製耳かきがコレ↓です。

自作チタン製耳かき_1
やや粗めのヘアラインフィニッシュのほうが渋い質感になるので好みなのですが、
衛生面を考えるとミラーフィニッシュのほうが良いと思いましたので、
ペーパーは2000番まで用い、コンパウンドも3種類を駆使して
顔がハッキリと写るくらいまで磨き込みました。


もう少し細い材料だったら先端部分を作るのに叩いて延ばし、しかる後に曲げ加工を施すといった工程も必要だったでしょうが、上述のように5mmΦという太さに余裕がある材料を用いましたので、100%削り出しです。

未加工チタン丸棒との比較

未加工の丸棒との比較ですが、ご覧のように軸は先端部に向かってテーパーを付けてあります。写真では解りにくいかも知れませんが、このテーパーは直線ではなく、なだらかにカーブさせています。これは万力などで材料を固定せず、材料もヤスリも手に持った状態で削ったため、自然にこうなりました。

真っ直ぐ削るには材料を固定したほうが良いのですが、固定すると養生してやったつもりでも、余計なキズを付けてしまうことがありますし、力を込めすぎると変形させてしまいやすいため、その修正に手間を取られたくないと思ったからですが、結果的にこの曲線が見た目に柔らかい印象となり、造形として無機的になり過ぎることもなく、なかなか良い感じに仕上がったように思います。ま、手前味噌ではありますが。

このテーパーは手に持ったときの重量バランスも考慮しています。中指で支持するあたりが重心になるようにし、それに見合った重量バランスとなるようにテーパー加工を施していったわけです。が、これも予め重量分布を計算してテーパーを付け始める位置を割り出したのではなく(デザインも決まっていない状態でそんな計算などできるわけがありませんし)、様子を見ながら削っていくことで自然に位置が定まった格好です。

自作チタン製耳かき_2
自作チタン製耳かき_3

先端部分もヤスリの形状を利用しながら適当に形を整えていったため、見た目ほど手間はかかっていません。軸にテーパーを付けるほうが削る量が遙かに多く、断面があまりイビツにならないよう、できるだけキレイな楕円になるように注意を要したため、比べものにならないくらい手間がかかっています。が、初めにデザインを絞り込まず、臨機応変にカタチを創り上げていくことにしたのは正解だったように思います。

この原稿を書きながらいま気付いたのですが、予め厳密なシナリオを策定しなかったという意味で、この耳かきの製作方法はプレスコアニメに通じるものがあると言えるかも知れませんね。

で、肝心の掻き心地ですが、これは「まぁまぁ」といったところです。あまりエッジを立て過ぎると痛く感じたり、場合によっては皮膚に傷を付けてしまう恐れも生じてきますが、逆にダルくし過ぎると滑って上手く耳垢を捕えてくれない感じになってしまいます。絶妙な頃合いにチューニングするのは一朝一夕では立ち行かない境地なのでしょう。

ま、世の中には耳かき一筋という職人さんもいますから、全くの素人である私が生まれて初めて作っていきなりパーフェクトな耳かきが出来上がるなんて、そんなに甘いものではないでしょう。価値判断の基準が緩やかであまり高望みしない人ならこの程度でも満足できるかも知れませんが、私はいくらでも改善の余地があると思っていますので、まだまだ納得していません。

例えば、先端をもう少し厚めに加工して皮膚に触れる面積がもう少し大きくなるようにすれば、その分だけ圧力を分散できるでしょう。先端部手前側のエッジをやや立て気味に、反対側のエッジは厚さを生かして緩やかに加工すれば、耳垢を捕える感じと滑らかな使い心地を両立できたかも知れません。また、先端部の形状や角度も大いに検討の余地があると思います。

材料はもう1本分あるのですが、私の日常を超えた酷使で指先の皮膚がこれ以上の作業に耐えられそうにありません。頻繁にやっていれば皮が厚くなって問題ないのでしょう(昔、プラモデルをよく作っていた頃は指の皮が厚くなっていました)けど、現状では少々辛いものがあります。リューターやディスクサンダーなども持っていますが、この種のパワーツールを使うと不慣れな私の技量では軸のあの微妙な曲線を上手く出せないでしょうし。

また、今回の調整段階で耳垢を取り尽くしてしまったようで、何日か間を置かないと自分の耳で充分な確認もできそうにありません。なので、もうしばらくしてモチベーションが低下していなかったら、リトライしてみる気になるかも知れません。
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裁判員裁判は一年足らずで形骸化の実例を示した

当blogでは裁判員制度が始まった昨年、2度にわたる連載で出鱈目な制度であると批判しました。(関連記事「それでもボクはやりたくない」「裁判員制の問題点は何故看過されるか」) その中でも何度か触れましたが、二審以降に裁判員が参加できない現在の制度では一審で裁判員が画期的な判断を下しても容易に形骸化できるという大きな欠陥があります。

これも以前に述べましたが、アメリカの陪審制では原則として陪審員の評決を覆せない仕組みになっていますし、ヨーロッパの参審制では二審以降も参審員が参加できる仕組みですから、いずれにしても国民の意思が反映されるようになっており、制度そのものが無駄にならないような仕組みになっています。

当初、司法研修所の報告書でもこうした点が憂慮され、「控訴審については、裁判員が判断した一審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限る」と述べられていました。が、実際に裁判員裁判が行われるようになって1年足らずでその「例外的なケース」が巡ってきました。

「必要な理由示さず違法」=一審裁判員判決を破棄-東京高裁

 身分証を盗まれたと思い込んで知人を殺害したとして殺人罪に問われ、一審の裁判員裁判で懲役4年6月とされた無職伊作輝夫被告(70)の控訴審判決が14日、東京高裁であった。小倉正三裁判長は「判決に必要不可欠な理由が示されておらず違法」として一審判決を破棄し、改めて一審と同じ懲役4年6月を言い渡した。

 一審横浜地裁は、事件当時、被告が精神障害のため心神耗弱状態だったと認定。その上で、被告が被害者から危害を加えられると思い込み、過剰に反撃して殺害した「誤想過剰防衛」が成立するとしていた。

 これに対し小倉裁判長は、一審判決は検察官と弁護人に争いがないため誤想過剰防衛を認めたが、争いがない場合にも理由を示す必要があり、一審判決には不備があると指摘。控訴審での証拠調べの結果、犯行は被告の思い違いが原因で、誤想過剰防衛は成立しないと判断した。

 その上で、検察官が控訴しておらず、より重い刑を言い渡すことはできないため、一審の刑を維持した。

(C)時事通信社 2010年7月14日


驚くべきことに、この件では一審の判決を検察も受け容れ、控訴すらされていませんでした。にも関わらず、東京高裁が二審を行って一審判決を破棄するという、殆ど東京高裁の独断で事が運んでしまいました。

ま、一審では「検察官と弁護人に争いがないため誤想過剰防衛を認めた」とのことですから、要するに「公判前整理手続」という密室で争点を打ち合わせる談合行為の欠陥がモロに出てしまい、それを二審で是正したという格好なのでしょう。が、密室の弊害と裁判所の独自の判断で結果を左右できる一方的な権力構造になっていることをこれほど解りやすく示す例はないでしょう。

こんな一方的な手続が許されるのであれば、国民の視点や感覚が裁判の内容に反映されるだの、 裁判が身近になり司法に対する国民の理解と信頼が深まるだの、国民が社会について考えるようになってより良い社会への一歩となるだの、裁判員裁判の意義を唱えたアレは何だったのかということになります。

この事件は一審で裁判員裁判の粗雑さを如実に示し、二審でそれを裁判所が一方的に覆すことができるということを示しました。いい加減な御託を並べて嫌がる国民を無理矢理巻き込み、「国民の負担軽減」という名目で公判期間を大幅に短縮した手抜き裁判を横行させる出鱈目な制度を放置すべきではありません。

主要メディアは毎日新聞などを除いて「守秘義務違反の罰則が重すぎる」などという取るに足らない批判はしていましたが、概ねこの制度を歓迎していました。しかし、彼らはこの制度の仕組みを詳しく検討しなかったゆえ、今回のような事例の問題点にも気付くことができなかったということなのでしょう。

アメリカで陪審員裁判を望む被告(アメリカでは被告の希望で陪審員裁判になるか否かが決まります)がわずか5%でしかないという実態を知らない朝日新聞の論説委員は、社説で「欧米では、陪審員や参審員の目の前で行われる法廷での審理が中心」などという妄想を炸裂させ、それとは異質な日本の刑事司法を「ガラパゴス的」と断じました。が、ここで取り上げた事例のほうがよほど「ガラパゴス的」というべきでしょう。

このように根本となる視点が絶望的にズレまくっている日本のメディアには健全な司法のあるべき姿を論じるのは無理ということですね。

宗教的な環境志向はダブルスタンダードも厭わない (その2)

かつては保守系新聞でさえ原発に対して慎重な意見を述べていた時期もありました。特にスリーマイル島やチェルノブイリなどの重大事故を経験してしばらくはそうした傾向が強かったように思います。が、地球温暖化問題という突破口を得てからは朝日新聞や日本経済新聞といったリベラル系までもが原発推進へ舵を切り直し、次第にそのトーンを強めるようになりました。

こうした中で莫迦の一つ覚えのように繰り返されているフレーズが「原発は運転中に二酸化炭素を出さない」というもので、日経の6月27日付の社説にもこの常套句が当たり前のように振りかざされていました。

しかし、そんな一部分を見て意志を固めてしまうのは些か乱暴ではないかと思われます。原発も発電設備の建設や維持、核燃料の精製や放射性廃棄物の処理などを含めたライフサイクル全体ではやはりCO2を排出していますし、他にも様々な環境負荷があるのですから、LCAを無視すべきではありません。

なお、再三述べていますように、私はCO2温暖化説などという程度の低い仮説にはかなり懐疑的な立場ですから、CO2の排出そのものが環境負荷になるとは考えていません。が、それを語り始めるとハナシが進まなくなりますので、ここでは問わないことにします。

財団法人電力中央研究所は『ライフサイクルCO2排出量による原子力発電技術の評価』という報告書を発行しています。ただし、この電中研という組織の運営資金は電力会社の共同出資によるもので、決して中立的な立場とはいえません(というより、電力会社の下僕も同然でしょう)。なので、何処までアテになる情報なのかは解りませんが、今回はそうした点についても問わないことにして、あえてこの報告書をベースにします。

この報告書では各種の発電方法毎にライフサイクルCO2排出量を算出し、下図のように纏めています。

各種発電技術のライフサイクルCO2排出量
各種発電技術のライフサイクルCO2排出量

核燃料の濃縮条件の違いによってそれなりに幅が設けられていますが、一方、「将来の使用済み燃料の取り扱い方法においては不確定要因があるが、その取り扱い方法の違いはライフサイクルCO2排出量にはそれほど大きな影響を及ぼさない」としているところが大いに引っ掛かります。とはいえ、それに難癖を付けられるような具体的なデータを持っているわけではありませんので、今回はそれもスルーして、とりあえずこの結果だけに着目してみます。個人的には原発がライフサイクルで水力発電の2倍を超えるCO2を排出しているという点がかなり気になりました。

もちろん、水力発電はダムが環境を破壊し、生態系を乱すものですから、その開発を是としない考え方も尊重すべきです。渇水時を想定すればエネルギーの安定供給という点でも万全とはいえない部分が残されています。が、柔軟な出力調整ができない原発は電力需要の細かい変動に対応できないという点で安定的な電力供給源として自立できません。需要に対して適切な供給を維持するには、その調整を担う別系統のシステムが不可欠です。

現状では火力や貯水池水力の出力調整でも補えない部分の多くを揚水発電というエネルギーストレージに依存しています。つまり、「低炭素社会」を目指して火力発電を減らし、原発を増やし、その稼働率を上げていけば、電力需給の調整代となる揚水発電も増やして行かざるを得なくなるでしょう。

安価でサイクル寿命が長く、製造や廃棄処分時の資源投入が少なくて済み、環境負荷の小さい理想の充電池が実用化され、これを大規模エネルギーストレージとして利用できるようになれば状況は大きく変わるかも知れません。が、その具体性がまだまだ不充分な現段階では、原発の拡充にあたって揚水発電の拡充を否定することはできないでしょう。

原発に反対している人たちは例外なく揚水発電にも反対しています。それは現在の日本において両者が不可分の関係だからです。しかし、揚水発電はエネルギーを30%も目減りさせますから、お世辞にも効率が良いとはいえません。また、オフピークの余剰電力で水を汲み上げ、ピーク時にその水力で発電するわけですから、発電施設を挟んで貯水池を上下に設けなければ成り立ちません。つまり、ダムを二段構えにする必要があるわけです。

普通に水力発電を運用すれば発電量あたりのCO2排出量は原発の半分以下で済むとされています。CO2以外の環境負荷は内容が違いすぎるので比較すること自体に無理があるかも知れません。が、原発を推進しても揚水発電という水力発電を増やしていかなければ辻褄を合わせられないのであれば、本当に原発推進が「当然の選択」といえるのか、大いに疑問を感じます。電力供給システム全般を視野に入れ、科学的にもっと細かく精査していく必要があるでしょう。

電中研の報告書もこうした揚水発電などのエネルギーストレージを含む電力供給システム全般で原発を評価しているわけではありません。原発だけでなく、風力や太陽光発電など出力調整ができない発電方法を推進している人たちは、その補完システムを軽視する傾向が極めて強いと感じられます。そうした中で「スマートグリッド」などというバズワードが幅を利かせるようになってきましたから、楽観論をさらに加速させているのではないかと懸念されます。

日経の社説は「原子力を柱に据えるのは当然の選択」と断じ、これに反対する人たちについては「立地自治体への補助金である電源立地交付金の見直しは急務だ」「国は公聴会などで地元の要望を丁寧に聞き、原発を地域振興にどう役立てるか、地元と一体となり知恵を絞ってほしい」などと結局カネで丸め込もうとする態度ですから、国民を莫迦にしているようにさえ感じられます。

その一方で、技術的な懸念材料には一切触れていません。この社説も数多いる楽観論者たちと全く同列で、部分的な特性を過大に主張しながら、現実に直面している問題を真摯に捉えないまま、一方的な理屈で押し通そうというわけです。

私は先にも述べましたように、原発に対して「慎重派」であっても決して「反対派」ではありません。安全性を初めとして技術的な諸問題がクリアになれば感情的にこれを排斥しようとするのは間違いだとも思います。しかし、電力需要に応じた供給量を単独で調整できる火力や貯水池水力のような柔軟性が求められない発電方法は、そのままでは現実の電力供給システムに溶け込ませるにも限界があるという極々初歩的な課題を軽視することができません。

日経も「当然の選択」というからには、諸般の課題に対しても具体的な方向性を示すべきでしょう。そうした議論もないまま単純にCO2がどうのこうのというだけでは何の説得力もありません。

説得力がないといえば、前回書き忘れたのでここで補足しておきます。電力インフラの点検に関して日本のやり方が過剰なのか否か簡単には判断できませんが、一つの指標としては「年間事故停電時間」も参考になるのではないかと思われます。

年間事故停電時間の国際比較

ご覧のように日本は事故による停電が極めて少なく、抜群の安定性・信頼性を誇っています。「アメリカ、フランスは災害による停電を除く」とありますが、災害によって引き起こされた事故の停電もカウントしている日本と比べてもアメリカは5倍を超える停電が発生しています。つまり、同条件ならもっと大きな差がついているということです。

もちろん、バックアップとなる電源にどの程度の余力があるかによってもこの「年間事故停電時間」は大きく左右されるでしょうから、単純な比較は意味を成さないかも知れません。が、効率優先で稼働率を上げれば不具合が生じた際の余波がより広範囲に及ぶ懸念も高まるものです。先日、日立製作所からエンジン制御用の半導体部品の供給が滞ったことで、日産の国内3工場が3日間操業中止を余儀なくされました。効率を追うばかりに余力を見込んでおかないと、イザというときに脆さが浮き彫りになるというのが世の常です。

稼働率や点検時間の長短を語る一方で電力インフラの質を問わないのでは片手落ちと言わざるを得ません。日経の論説委員が無知なのか、解っていながら論旨に都合良く情報を取捨しているのかは解りませんが、どちらにしても価値判断基準が甘すぎることには違いないでしょう。

さて、ここから本筋とは関係ない話題に変えますが、件の原油流出事故について日本のメディアは何故BPを強く批判しなかったのでしょうか?

先に取り上げた日経の6月14日付社説も、「BPは潜水ロボットで漏れを止めようとしたが、成果が上がらない。汚染除去などで、同社の対策費はすでに10億ドル(約900億円)を突破している。」としか述べておらず、彼らの責任を糾弾するような意向は微塵も感じられません。

もちろん、これは日経に限ったハナシではありません。他のメディアも似たり寄ったりで、油まみれになったペリカンの映像を流すなど感情的な煽りは盛んにやっていましたが、この事故を引き起こしたBPに対する批判は非常に手ぬるいものです。BPの社名にすら触れず、流出事故による環境汚染しか伝えないケースや、対応の遅れた米政府に対する批判にとどまるケースも珍しくありません。

例のリコール問題で袋叩きにされたトヨタとは比べるべくもない「他人事」状態です。日経は7月7日付の社説でエンジンが停止する恐れがあるとしたレクサスのリコールを取り上げ、「日本のものづくりが揺らぎかねないというくらいの強い危機感で、原因究明と問題解決に取り組んでほしい」などと、またぞろ大袈裟に書き立てていましたが、BPに対しては殆ど何も注文を付けていません。

余談になりますが、BMWも535iグランツーリスモにエンジン停止の恐れがあるという同じ症状のリコールを7月13日付で届出ていますが、レクサスのように大きく報じられることはありませんでした。ま、台数が2桁少ないということもあるのでしょうが、台数の多少が品質管理の水準に直結するとは限りません。そもそも、2009年度の日本国内における販売台数はトヨタの約136万台に対してBMWはミニを含めても約4万台で2桁違うのですから、リコール対象車が2桁違うからといってその扱いに差を付けるのはフェアじゃないでしょう。

BPが引き起こしたこの事故の影響はトヨタのリコール問題とは全く比べものにならないほど大きなものです。その影響力に対する責任追及の度合いがこれほど引き合わないのは異常としか言いようがありません。これも立派な偏向報道であり、ダブルスタンダードというべきものです。

このように規範がブレまくるのは日本のメディアにマトモな価値判断能力が備わっていない証左です。もしかしたら、裏で何らかの力が働いたり働かなかったりした結果がこのような差を生んでいるのかも知れません。が、それはそれでジャーナリズムとして欠格していると言わざるを得ないでしょう。

(おしまい)

宗教的な環境志向はダブルスタンダードも厭わない (その1)

日本経済新聞は6月14日付の社説『低炭素化を促すメキシコ湾の原油流出』でこんなことを述べていました。

 今後、海底油田に対する規制の強化が進み、開発費が増えるのは避けられない。安い値段で得られる石油は、長期的に少なくなる。地球環境を守り、同時にエネルギーの安全保障を確保していくには、化石燃料になるべく頼らない低炭素社会づくりを目指すことが大切である。そんな教訓を今回の事故は示している。


石油から代替エネルギーへの転換が加速し、石油に依存しない世の中の在り方が具体的に見えてきたという段階ならこうした主張も理解できます。しかし、今後もかなりの長期に渡って多くを石油に依存し続けなければならないというのが現実です。事故のリスクとそれを防ぐための規制強化でコスト増の懸念があるから低炭素化を急げという主張は飛躍が過ぎるように感じられます。

今後も油田開発は不可避という現状を正しく認識すれば、同様の原油流出事故を繰り返さないように、あるいは起こってしまった際の対処法などの技術開発を進め、同時に制度の見直しにも注力していかなければならないといった方向で論を進めるべきです。

この社説でも一応は「開発に携わる石油会社や関係国政府は、改めて十分な安全対策を用意しなければならない」と述べています。が、この部分こそが最も重要な論点で、たった一文で済ませるようなことではありませんし、タイトルに掲げるべきなのも低炭素化云々よりコチラでしょう。

その舌の根も乾かぬうちに日経はこんな社説を載せました。

原発で国が前に出てエネルギー確保を

 低炭素社会の到来で国内のエネルギー需要は減少が見込まれる一方、中国など新興国の急成長で原油など資源の争奪戦は激しさを増す。それにどう対応するか。

 政府はエネルギー政策の指針となる「エネルギー基本計画」に、2030年までに原子力発電所を14基以上増やす目標を明記した。原油など輸入資源への依存を減らし、原発を軸に太陽光発電なども加え、30年のエネルギー自給率を35%程度に引き上げる。08年度の自給率は18%だから、かなり高い目標である。

 原発は運転中に二酸化炭素を出さない。ウランは輸入しているが、リサイクルして国内で長期間使えるため「準国産エネルギー」とみなされる。低炭素化とエネルギーの安定確保を両立するため、原子力を柱に据えるのは当然の選択である。

(後略)

(C)日本経済新聞 2010年6月27日


原発推進について個人的には「慎重であるべき」という立場ですが、その是非ついて軽々に論じるべきではないでしょう。ことのついでに語るような浅いテーマではありませんので、別の機会に改めるとして、ここでは日経の社説に見られる価値判断の甘さや価値基準のブレを指摘したいと思います。

6月14日付の社説では原油流出事故による海洋汚染は「低炭素社会づくりを目指すことが大切である」ことの「教訓」などと解釈する一方、同27日付の社説では「低炭素化とエネルギーの安定確保を両立するため、原子力を柱に据えるのは当然の選択である」というのですから、これは価値基準がブレているといわざるを得ないでしょう。

事故のリスクやそれを防ぐために強化される規制によってコスト増が懸念されるという論点でいけば、油田開発などより原子力に対してさらに慎重であるべきです。しかし、日経の社説は海底油田の開発について事故のリスクやその防止対策によるコスト増を理由に依存率を下げるべきだとしながら、原発のリスクは完全に無視し、「当然の選択」といっているわけです。

やや余談になりますが、この社説では

 検査制度の見直しも必要だ。国内の原発の稼働率は60%前後で低迷し、90%を保つ米韓などとの差は大きい。計画では稼働率を20年に85%、30年に90%に高める目標を示した。

 日本の原発は約13カ月ごとに止めて、平均140日かけて検査している。米国では運転中でも複数ある機器は交互に点検し、停止期間は40日弱だ。安全性を重視しつつ検査を効率化する工夫ができるはずだ。


と書かれていますが、諸般の事情をキチンと斟酌していないように感じられます。確かに現在の日本では原発の稼働率が低下していますが、2002年までは80%前後をキープしており、フランスと同等以上で世界的に見ても特に劣る水準ではありませんでした。

原発稼働率

2003年に稼働率が大きく低下したのは、東京電力の原発でシュラウドのひび割れ隠しが発覚、福島第一および第二、柏崎刈羽の合計17基が一斉に運転停止を余儀なくされたというのが主な要因と見られます。また、2007年から再び低下したのは、ご存じのように柏崎刈羽原発が中越沖地震による事故で停止したことが大きな要因と見て良いでしょう。他にも諸々の故障や地元の了解が得られずに再起動が遅れている例などもありますから、稼働率が低い原因を検査制度だけで説明するのは無理があるように思います。

それはともかくとして、「安全性を重視しつつ検査を効率化する工夫ができるはずだ」と簡単に言ってのけるのであれば、「安全性を重視しつつコストを抑えた海底油田開発を進める工夫ができるはずだ」という言い分も認めなければなりません。

このように持説に都合良く規範を使い分け、価値基準が一定していないようではハナシになりません。エネルギー政策のあり方については科学的にメリットとデメリットを付き合わせ、公正な評価を下していく必要があります。しかし、日経は規範を使い分けてでも「低炭素社会」という理想郷を求めたいというわけです。宗教的な環境志向にありがちなパターンではありますが、日本を代表する経済紙の社説としてはお粗末としか言いようがありませんね。

(つづく)

80点主義なんてクソ食らえ!なカメラ (その8)

シグマDPシリーズはアクセサリといっても外付けストロボ、フィルター(46mmΦ)を取付けるためのアダプタ(専用フード付属)、クローズアップレンズ、ケース類や電源関係などで、それほど豊富とはいえません。が、ビューファインダーはなかなかマニア心をくすぐるアイテムだと思います。

フレーム枠が切り替わらない初期のレンジファインダーカメラは、交換レンズの焦点距離に応じてアクセサリーシューに専用のビューファインダーを装着するのが当たり前でした。もちろん、ライカMシリーズのようにフレーム枠が切り替えられても対応しない画角のレンズを使うときは専用のファインダーを用いるのが普通でした。なので、昔はこうしたビューファインダーが豊富に揃っていたんですね。

当然のことながら外付けファインダーはパララックス(視差)が非常に大きくなり、ファインダーから見える状態と写る画には相応の差が生じます。一眼レフが普及する以前はそれが当たり前でしたから、当時の人は我慢して経験と勘で何とか対応していたのでしょう。が、狙い通りの構図を得るのはそれなりのスキルを要します。なので、構図を等閑にできないときは素直に液晶モニタを用いたほうが無難でしょう。

私の場合、このビューファインダーを装着していても実際に利用する機会はそれほど多くありません。絞り込んでパンフォーカスにしておき、スナップショットで構図に凝らずに速写するといった使い方には向いていると思いますが、そのデータをSDカードへ書き込むスピードが遅いわけですから、そもそも連写に向かないカメラです。また、場合によっては絞り込むことで感度の低いイメージセンサの限界付近で使うことにもなります。そういう意味でもイマイチといった印象なんですね。

ただ、こうした使い方はバッテリーを長持ちさせるのにかなり有効です。ビューファインダーを用いて液晶モニタをOFFにしておけば、すぐに情報表示が見られないという支障はあるものの、相応に撮影枚数を増やせます。また、パンフォーカスにしておけばレンズの行ったり来たりもなくなりますから、さらに持ちが良くなります。

パララックスをあまり気にせず、銀塩時代のように撮影結果などその場で確認しないで撮るといった割り切りがあれば、予備バッテリーを持たずに出掛けてもそこそこ撮影枚数を伸ばすことができますから、より軽快感も増すでしょう。こうした使い方こそ、このビューファインダーには相応しいのかも知れません。

また、ビューファインダーは見た目の印象を変えますから、実際に使うかどうかはともかく、装着することで独特の雰囲気を醸し出すアクセサリとして効果的です。DPシリーズには何冊かムックも出ていまして、純正ではないケースやフードの類と並び、ビューファインダーも社外品を用い、「オリジナリティを演出する小道具」といったニュアンスで紹介されています。このアイテムは昔のレンジファインダーカメラによく用いられたこともあり、やはりクラシカルな装いが似合うと思います。

ツートーンスタイル
『シグマDP2&DP1マニュアル』に紹介されていたアレンジ例
ユングフラウレザーのハーフケースには一目惚れしましたが、
どうやら現在は受注中止のため入手困難なようです。
ペトリのフードやPax M2用ビューファインダーなど
いずれのアイテムも普通に入手できそうもないレアもので、
真似したくてもそう簡単にはいかないでしょう。


これは『シグマDP2&DP1マニュアル』に載っていたもので、かなりレアなアイテムを導入していますから、そのまま真似ることは非常に難しいでしょう。それ以前に、この例はDP1でファインダーも28mm用ですから、41mm相当のDP2には合いませんし。いずれにしても、私のセンスでここまで格好良く纏めるのは不可能だと思います。なので、見た目にはあまり拘らず、実用性重視のアレンジでいくことにしました。

自動開閉キャップ装着例
『シグマDP1マニアック・マニュアル』に紹介されていた改造例

こちらは『シグマDP1マニアック・マニュアル』に載っていた例で、リコーGX200用の自動開閉式レンズキャップ(LC-1)を流用するというアイデアです。

純正は被せ式のキャップで、外し忘れて電源を入れると「レンズキャップをはずし、電源を入れ直してください」とエラー表示されます。その状態からレンズキャップ外すだけではダメで、指示通り電源を入れ直さなければなりません。起動がトロいDPシリーズですから、レンズキャップの外し忘れくらいで一度電源を落とし、再起動させるというのは思いのほか鬱陶しいものです。なので、これはなかなかのナイスアイデアだと思い、真似してみることにしました。

ちなみに、上の写真はDP1ですから、レンズの繰り出し量が少ないうえ、焦点距離が28mm相当になります。そのままでは分割されたキャップの先端部分で少し蹴られてしまうそうで、裏にガイドレールを追加してキャップの開度を増すという芸の細かい改造が施されています。が、穴を開けたオリジナルキャップとの接合は粘着テープを巻いただけという大雑把な仕上げが私の感覚では満足できません。

また、GX200用は中心から直線で三分割されており、あまり色気を感じませんでした。その後に発売されたGXR用(LC-2)は少しひねりが入っており、そのほうが私には格好良く見えましたので、そちらをチョイスしてみました。

SIGMA_DP2(開)

サイズはドンピシャで、レンズの繰り出し量が大きいDP2にはガイドレールの追加など細かい改造も全く不要でした。純正のレンズキャップをコンパスカッターで切り抜き(刃の付いているほうとは逆回しにするとPカッターのように溝を切っていくことができます)、しかる後にエポキシ接着剤で自動開閉キャップを接着しました。芯出しを入念に行ったため、カッターで開けた穴も取付けた自動開閉キャップも肉眼では偏芯を確認できないレベルに追い込めました。

SIGMA_DP2(閉)

手前味噌で恐縮ですが、事情を知らない人に見せて改造したものだと言うと驚かれる程で、接合部は我ながらキレイに仕上げられたと思います。純正の被せ式のように一々着脱しなくて済みますし、外し忘れて再起動という手間も回避できます。厚さも9mm程度(カメラ本体+純正キャップの厚さに対して約15%)しか違いませんので、普段はこの状態にしています。

別のアレンジとしましては、フードを社外品にするというパターンも試みています。ムックで紹介されているようなクラシカルでマニアックな見た目重視ではなく、浅くてあまり役に立たない純正のフードより高い実用性を狙いました。

アチコチ探してみたところ、フィルター枠にネジ込む方式の花形フードというものを発見しました。ネジ込み式では丁度良い位置で固定できないのではないか?と思われるかも知れませんが、リング状のカウンターナットで締め加減を調整するという賢い対処方法で問題をクリアしています。ただ、最小でも49mmΦまでしかなく、DP2純正アダプタの46mmΦには合わないため、ステップアップリングを噛ましてあります。

SIGMA_DP2(花形フード付)

見た目はかなり間延びし、ソニーのα-NEXを「レンズデッカチ」と莫迦にできないような雰囲気になってしまいますが、フードの深さは純正の2倍以上あるお陰でそれなりに効果が増します。逆光に弱いDPシリーズにとってはかなり実用性の高いアイテムといえるでしょう。

なお、このフードは35mm判で焦点距離24mmまで対応するとのことですから、28mm相当のDP1でも蹴られることはないと思います。ただ、この状態にビューファインダーを付けてもフレーム下方の3~4割くらいを遮られてしまいますから、殆ど使い物になりません。こうしてみますと、純正のフードが中途半端な深さなのは、ビューファインダーとの兼ね合いによるのかも知れません。

この花形フード付は見た目も私の趣味ではありませんし、ネジ込み式のフードはバヨネット式のそれほど脱着が簡便ではありませんし、かといって付けっぱなしだと嵩張ります。アダプタごと脱着したほうが簡単なのでそうしていますが、フードを付けた状態のアダプタもやはり鞄の中に入れておくには少々嵩張ります。

ということで、これは見た目も携帯性もあまり良いアレンジではありませんが、フードの機能を重視するならこれがベストに近いかも知れません。気軽に持ち出そうというときにはまずやりませんが、鞄に余裕があるときなどはこの格好で使用することもあります。一眼レフをメインで使用する際のサブとして携行するとき、この格好にしておくことが多いでしょうか。

他にも社外品でいくつかDPシリーズ用のアイテムが売られていますし、昔からアクセサリーシューや三脚ネジなどを利用したアクセサリも色々ありますし、それらを使ったアレンジも紹介されています。が、このカメラにあまりゴチャゴチャした雰囲気は似合わないと思いますので(あくまでも個人的な趣味の問題ですが)、私はこの程度に抑えることにしました。

シグマの偉いところは、基本構成をシンプルにし、純正オプションもアッサリ目に設定していながら、こうしたアレンジの余地があるようなツボを押さえているところです。ストラップを通すループ部分も、普通のコンパクトデジカメや携帯電話にありがちな構造ですが、2点支持として首から提げたときカメラ本体が水平になるようにしてあります。

また、付属のストラップは途中に汎用性の高い幅を持つループが設けられていますから、そこから先を一般的なストラップに挿げ替えられるようになっているのも「解っている人」の判断によるのでしょう。多くのDPシリーズユーザーはやはり好みのストラップに挿げ替えていると思います。私も下の写真のように附属品とは違うストラップを装着しています。

SIGMA_DP2(ストラップ付)

DP2はコンパクトカメラらしい軽さなので、太いストラップは必要ありませんが、細すぎても貧弱に見えてしまいがちです。そこで、以前FinePix S9000に付けていた銀一とアルティザン&アーティストのコラボストラップをリユースすることにしました。銀箔押しのロゴは使い込むと剥がれ落ちてノーブランド品になるというのが売りのストラップですが、思ったより耐久性があるのか、私の使用頻度が少な過ぎるのか、まだ十二分に判読可能です。

このDPシリーズは、コンタックスTシリーズなどから始まったかつての高級コンパクトカメラとはもちろん毛色が大きく異なります。前述しましたように、かつての高級コンパクトは素材や構造にコストのかかる贅沢な仕様が色々仕込まれていましたが、DPシリーズは非常に淡泊な感じで、高級感もなく、むしろ安っぽいと感じるところも散見されます。

しかしながら、画質に拘った単焦点レンズをはじめとして多くの部分が潔く割り切りられ、限られたサイズの中にやりたいことを押し込めた凝縮感という点ではかつての高級コンパクトに通じる作り手の意思を感じさせるものです。複数の交換レンズを用意して「お客様の用途に合ったモノをお選び下さい」といいながらマーケットが偏るのを避ける無難なところで商売をしている大手メーカーのアプローチとは一線を画すものです。

2,652×1,768×3層=約1406万画素と謳うスペックはご愛敬で、3層あっても1画素は1画素ですから、実際には約469万画素という低解像度です。現状では感度の低いフォビオンセンサの限界がこの画素数なのかも知れません。が、プリントするにしてもA4程度までならこの解像度でもそれほど見劣りすることはないでしょう。私が持っているプリンタはA4までしか対応しませんし、大概のアマチュアユーザーも同様でしょう。むしろ、最近のコンパクトデジカメのほうが無駄に解像度を高くしていると見るべきかも知れません。

まだまだ未完成なカメラゆえ、DP1もDP2も1度マイナーチェンジが行われ、現行モデルはDP1sとDP2sになり、先行したDP1は2度目のマイナーチェンジも近いようで、DP1xの発売が予定されています。こうして改良が重ねられていくことは今後の熟成を期待させるものでもあります。もはや煮詰まってしまった感の否めない普通のコンパクトデジカメにはない伸び代を感じさせるところも、このカメラの魅力の一つといえるかも知れません。

(おしまい)

80点主義なんてクソ食らえ!なカメラ (その7)

脇色彩研究所のRWカラーバランスシステムには手軽にグレイサンプルが撮れるディフューザーが付属しています。それは76×76mmですから、汎用の角形フィルターホルダーにセットするのが正しい使い方です。が、光源に向けてワンショットするくらいなら左手に持ってレンズの前にあてがうだけでも殆ど支障がありません。

かつてカラープリントに熱中していた時分の私は、これをフィルターケースの中にしのばせておき、光源の色温度などが微妙なときや初めて使うフィルムでデータがないときなどに取り出してはグレイサンプルを撮っていました。

同キットのカラーチャートと撮ったサンプルとを照らし合わせれば、フィルターの補正値も解るという非常に便利なシステムでした。といっても、実際にはチャートの指示通りの補正をしても完璧なニュートラルグレイが得られるとは限らず、微妙な追い込みは必要です。が、私の技量では何もないところから始めるよりテストプリントの回数をかなり減らせましたし、それは手間とコストの削減にも繋がりましたから、大いに意義がありました。

もちろん、人間が観賞するものですから完璧なカラーバランスに整えるより記憶色に従ったほうが自然に感じることもありますし、あえて特定の色を強調して演出するのも写真表現という世界では珍しくない手法ですから、その辺は焼く人間の自由です。自家現像は苦労も沢山ありますが、そうした自由があるだけに楽しかったりするわけですね。

で、こうした便利なアイテムもカラープリントをやっている趣味人の絶対数が非常に少ないですから、当時でもそんじょそこらでは売ってませんでした。写真専門誌でその存在を知ってアチコチ探し回っても見つからず、仕方ないのでヨドバシカメラに注文して取り寄せてもらったのですが、何だかんだと3ヶ月は待たされたでしょうか。ちなみに、当時はネット通販どころか個人がインターネットに接続することも事実上不可能な時代でした。

色転びしやすいDP2を購入したことで十数年眠らせていたこのアイテムを復活させたわけですが、プラスチック製ですから経年劣化でカラーバランスが狂っている懸念もありました(昔の樹脂は紫外線を受けて劣化し、黄ばみやすいものもありましたし)。そこで様々な光源の下で新品のグレイカードとの比較テストをしてみましたが、そのような傾向は一切見られませんでした。引出しの中という暗所で眠っていたからか、そもそも劣化しにくい素材が吟味されていたからなのか、その辺りは解りませんが。

上述のように、銀塩のプリントではこうしたツールを使ってもテストを重ねることが必要で、それだけに手間もコストもかかりました。が、デジカメはRAW現像ソフトの簡単な操作でもかなりのレベルで補正ができてしまいますし、かかるコストもパソコンを動かす電気代のみでタダ同然ですから、私にとっては全く負担になりません。

現像しなければ結果がわからない銀塩写真と違ってモニタで調子を見ながら補正できるのですから、トライ&エラーといってもたかが知れています。RAW現像ソフトやフォトレタッチソフトでアレコレ弄るのは暗室ワークに比べればカネはもちろん、手間のかかりかたも時間のかかりかたも桁違いです。

思えば、マイコン制御の恒温バットが買えなかった学生時代の私は、バイメタルという非常に原始的な機構しか持たないヒーターで何とか薬液の温度を管理していました。不退色のダイクロイックフィルターを装備したカラー引伸機を手に入れたのも社会人になってからですが、その前はモノクロ引伸機のフィルターポケットにマゼンタとイエローのラッテンフィルター(コダックのゼラチンフィルターです)を抜き挿ししていました。

カラー引伸機はダイヤル一発でフィルターを調整できます。例えばマゼンタを60から75に増やしたいと思ったらダイヤルを60から75まで15目盛捻れば済みます。が、モノクロ引伸機では濃さの違うフィルターを重ねてポケットに挿入しますから、いま40と20のフィルターを重ねて60にしているけれど、15はないから20を抜いて30と05を加えて75にするといった具合になります。こうして手持ちのフィルターの中で組み合わせながら調整していくわけですから、やはり面倒な作業になります。

もちろん、ちゃんとした暗室も持っていません。遮光カーテンくらいでは隙間から漏れてくる光が強すぎて昼間にカラーは焼けません。なので、遮光カーテンだけでもほぼ暗黒にできる夜間に集中してやらなければなりません。ま、「カネはないけど暇はある」学生時代だったからこそ、手間をかけ、四苦八苦しながらカラープリントに挑むことができたのでしょう。いま思えば我ながら良くやったと思います。

が、デジカメで育った世代、否、銀塩での経験が豊富でも現像やカラーリバーサルでちゃんとしたフィルターワークを経験したことがない人たちは1枚の写真を仕上げるのに手間がかかるのは信じられないことなのかも知れません。そういう人の中にはDP2のようにカメラ任せで撮って時々変な色が出てきたりすると許せないという人もいるのでしょう。私などはそれを補正する手間が少々かかっても、写真と戯れていると感じることができますし、そのプロセスも殆ど苦になりません。

DP2(というよりフォビオンセンサを用いたカメラ全般というべきかも知れません)は、かなりのじゃじゃ馬で、クセはあっても一定の傾向が保たれていることが多いフィルムよりも扱いにくいと感じることもあります。が、銀塩の現像に比べればRAW現像はあらゆる面で簡便ですから、トータルでいえばやはり銀塩の自家現像とは比べものになりません。

DP2はホワイトバランスを「オート」にしておくと微妙に転んでしまうことが時々あります。そういうときは「カスタム」にして件のディフューザーを被せて光源を狙い、ニュートラルを出してやると概ね無難なホワイトバランスが得られるようです。より万全を期すためにRAW現像でジックリと補正をかけるならホワイトバランスを「晴れ」(太陽光)にして撮影し、その際の光源でグレイサンプルを撮っておいたほうが良いと思います。

ちなみに、エツミが輸入している「baLens」(←リンク先はPDFです)もRWカラーバランスシステムのそれと全く同じ発想でレンズにディフューザーを装着してグレイサンプルを得ようというものですが、そのディフューザーをレンズキャップ一体にしてしまったというのはなかなか面白いアイデアです。

とはいえ、結構いい値段ですし、DP2に合うサイズのものがないのでこれだけ持って歩くのも何ですし、RWカラーバランスシステムのディフューザーとは比べものにならない厚さがありますから、私としてはあまり欲しいとも思いませんが。

なお、DP2は光源に由来するホワイトバランスとは関係のない色かぶりも時々起こります。これもサンプルの取り方次第で補正の目安は作れなくもないのですが、私の場合は上述のようにカラーの自家現像という「昔取った杵柄」がありますので、経験と勘で適当に対処するようにしています。色に対する感覚はブランクで多少鈍ってしまったかも知れませんが、手間をかけることに対する耐性はさほど失われていませんので、銀塩写真の現像とは比較にならないほど簡便なRAW現像ソフトでの補正は苦になりません。

こんな風に書いてしまうとDP2はとんでもなく面倒くさいカメラと思われるかも知れませんが、実際には普通のデジカメに比べると少々カラーバランスが不安定というくらいです(希に「少々」では済まないときもありますが)。普通のデジカメも常に完璧なカラーバランスが得られているわけではなく、程度の問題でしかありません。私がこのDP2を使ってきた限りでは派手に転んだり被ったりしたことは数えるくらいしかありませんし、中にはこうした不安定さも「個性」として楽しめる人もいるでしょう。

フォビオンセンサの素性を理解して使う分には実に楽しいカメラだと思います。ま、その個性がかなり強烈ですから、当然のことながら人によって「合う」「合わない」が分かれるわけですが。

(つづく)

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まとめ

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