恐るべきはその上昇力で、連合国軍の高々度爆撃機が侵入してくる高度1万mまで僅か3分程で到達できました。ドイツの主力戦闘機だったメッサーシュミットBf109の場合、中期モデルであるBf109F-1で19分弱もかかっていました。アメリカのB-29がヨーロッパ戦線に投入されることを想定した高々度迎撃戦の切り札として大戦末期に配備されたフォッケウルフTa152Hでも11分以上かかっていましたから、レシプロ機とはまるで別次元です。
Me163は無尾翼機(水平尾翼がない飛行機)を研究するために試作されたモーターグライダーをベースとし、メタノールや抱水ヒドラジンなどを混合した液体燃料と酸化剤とを反応させるロケットエンジンを組み合わせたものです。が、実際に推力が得られるのはわずか8分間だけという非常に大きな足枷がありました。
また、この化学反応は非常に激しいゆえ危険度も高く、酸化剤である高濃度の過酸化水素は皮膚に付着すると腐食性薬傷を起こしてしまうため、パイロットやこれを扱うクルーたちは防護服を着用するという厄介なものでした。実際、爆発事故で殉職したパイロットもかなりいたようですし、過酸化水素をモロに浴びて半身が溶解したという悲惨な例もあったそうです。
同盟国だった日本にもこの技術情報がもたらされ、三菱重工がこれの国産化を期して「秋水」という戦闘機を試作していますが、初飛行で墜落事故を起こして大破、2号機もエンジンのテスト中に爆発事故を起こして計画は頓挫、実用化される前に終戦を迎えました。
オリジナルのドイツでは実戦投入され、公式には9機の敵機撃墜を記録しているそうです。が、今日のような誘導ミサイルを用いるのであればともかく、攻撃手段は機銃しかありませんでした。敵のレシプロ機との速度差が非常に大きく、弾を命中させるのも容易ではなかったようです。Me163はその速さが逆にアダとなっていたとする意見もあります。
また、絶望的に短い航続時間が連合国軍に悟られると、同機が配備された基地を迂回するルートから侵攻されるようになりました。こうして交戦機会を失ったことも手伝い、Me163は期待されたほどの活躍ができずに終わりました。述べ300~400機程度生産されたそうですが、戦果はそれに見合うものではなく、戦闘によるものより未成熟なロケットエンジンに因む事故で失われた機体のほうが多く、「第二次大戦中に咲いた徒花」といった誹りを受けても致し方ないでしょう。
しかし、Me163はダッソー・ミラージュⅢやコンベアF-102デルタダガーといったデルタ翼、コンコルドのオージー翼、果てはスペースシャトルのダブルデルタ翼など、無尾翼機の礎となりました。設計者アレクサンダー・リピッシュ博士はデルタ翼の提唱者でもあり、後に与えた技術的な影響力は決して小さくなかったでしょう。(戦後は鉄のカーテンで隔てられてしまいましたが、同様のアイデアはソ連のほうが早かったようですから、リピッシュ博士は西側における無尾翼機開発の功労者というべきかも知れませんが。)
また、Me163は水平飛行で1000km/h以上を記録し、音速までもう一歩というところまで迫ったという意味でも歴史に残る機体だったといえるでしょう。枢軸国は戦後しばらく航空機開発を禁止されましたが、もしこうした沙汰が下されなかったら、Me163ないしその改良機はアメリカのベルX-1より先に水平飛行で音速を突破していたかも知れません。
ちなみに、Me163は急降下時に音速を突破していたようですし(引き起こし時の荷重に耐えられず、空中分解で失われた機体もいくつかあったようですが)、1944年7月6日に新型エンジンを搭載したMe163B V18型がテストされたとき、水平飛行で音速に達していたという説もあります。戦時の極秘テストだったゆえ、公式に記録されなかったというありがちなハナシなので、事実か否かは解りません。が、もし事実だったとしたら、X-1が初めて音速を突破した1947年10月14日より3年3ヶ月早くMe163は音速の壁を破っていたということになります。
このMe163の運用開始は1943年ですが、先陣を切ったのはレシプロ機で94機、ジェット機(第二次大戦中に投入された世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262)で5機の撃墜スコアを持つエースパイロットだったヴォルフガング・シュペーテ少佐でした。整備兵は彼の武運を祈り、リヒトホーフェンにあやかって彼の乗機を真っ赤に塗り上げたそうです。

メッサーシュミットMe163(シュペーテ少佐機)
出撃時には正面図にあるような車輪を装備していますが、
離陸と共にこれを投棄し、身軽になって上昇していきます。
帰投する際には側面図のように機体下部をせり出させ、
これをソリとして草地などに着陸していました。
危険な燃料を扱うゆえ専用設備を必要としただけでなく、
高温のロケット噴射に耐える滑走路、着陸用の草地など
運用拠点には大きな縛りがありました。
連合国軍がこの機体の運用拠点を避けるようになっても、
容易に対応できなかったという点も戦果が振るわなかった
要因の一つと見て良いでしょう。
この真っ赤なMe163を見たシュペーテは唖然としたといいます。猛烈な上昇力と敵爆撃機の2倍くらいの速度で飛べる迎撃戦闘機とはいえ、必要以上に目立つのは望ましいことではなかったでしょう。わずか8分で燃料が尽きて推力を失うと、あとは滑空で帰投するしかありませんでした。その段階を狙われるとひとたまりもありませんから、できるだけ目立ちたくなかったでしょう。それでもシュペーテは真っ赤なMe163に搭乗して出撃したそうです。結局、彼はこの機体で撃墜記録を残せませんでしたが。
で、このMe163ですが、愛称は「コメート(komet)」といいます。英語でいえば「コメット(comet)」、日本語でいえば「彗星」です。赤く塗られたシュペーテのMe163は、実在した「赤い彗星」だったのです。レシプロ機の3倍を軽く超える圧倒的な上昇力で迫って来る真っ赤なロケット戦闘機に、連合国軍兵士は地球連邦軍兵士が抱いたような恐怖を感じたかも知れません。
(おしまい)
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