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酒と蘊蓄の日々

The Days of Wine and Knowledges

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かくして流言蜚語は横行する (その2)

産経新聞、読売新聞、日本経済新聞などは地球温暖化対策というありがちな理由も掲げながら原発推進を社説で声高に唱え続けてきました。今般の事故を受けて朝日新聞や毎日新聞などは原発への依存を減らす方向性についても言及し始めましたが(といっても、太陽光や風力といったいつものおとぎ話に走りがちですが)、従来から強力に原発推進を唱えてきた三紙の考え方は史上二番目の過酷事故が日本の原発で起こってしまった現在も殆ど変わっていないようです。

特に頑ななのは産経新聞で、事故から5日後となる3月16日付主張『複合原発事故 国家危機に総力結集を 生命に危険な段階ではないが』は「地球温暖化対策の切り札」という決まり文句を繰り返し、「冷静な選択が必要」として推進論を堅持しています。また、4月1日付の『東電会長会見 復興に発電力は不可欠だ』では「一時の感情に流されて原子力の否定に傾斜するのは短慮にすぎる。国のエネルギー安全保障上も危険である。」とも述べています。

さらに、国際原子力事象評価尺度が最悪の「レベル7」へ引き上げられたことに対して、4月13日付の主張『福島レベル7 「最悪」評価はおかしい チェルノブイリとは全く違う』で激しく反発しています。これもやはり推進論の障害となる要素を排除したいという意図の現れと見て間違いないでしょう。

私は以前にも述べましたように、原発について「反対派」ではなく「慎重派」です。今般の事故を受けてもそのスタンスが大きく変わったわけではありません。ただ、推進派がせっせと作り上げてきた「安全神話」が崩れ去ってしまったのは揺るがしようのない事実です。その点について何の検証もなされていない段階で、原発推進を「冷静な選択」と主張する産経新聞の態度は却って逆効果になるのではないかと感じます。

メディアが感情論に流されるということは避けなければなりませんが、被害者の心情に対する配慮も忘れるべきではありません。今回の事故のせいでそれまでの生活を維持できなくなった人たちの多くは「原発なんてもうゴメンだ」と思っているハズです(避難を余儀なくされた私の親戚やその知り合いなどは皆そう言っています)。こうした人たちにしてみれば、原発推進を「冷静な選択」とする産経新聞の主張は到底受け容れられないでしょう。

様々な検証を行い、議論を重ね、多くの人が納得できるようなカタチで今後も原発を推進することは妥当だと結論付けるならともかく、産経新聞が原発推進を「冷静な選択」といったのは自衛隊のヘリによる放水もまだ成されていない、応急対策すら手探り状態という段階です。「冷静な選択」という言葉の裏を返せば「脱原発を望むなど冷静さを欠いた判断」とも読めますから、この主張には反感を抱いた人も少なくなかったでしょう。流言蜚語というのは得てしてそうした反感とも迎合し合い、膨らんでいくものです。

一方、日経新聞の社説も言葉の選択という部分で思慮の甘さを感じさせます。3月26日付の社説『原発早期復旧に怠れぬ現場の安全確保』では以下のように結ばれていますが、この論説委員の選んだ言葉はやはり不適切だったと感じます。

東電や協力会社はすでに多数の技術者を現地に派遣し、応援体制を組んでいる。復旧作業の長期化を視野に入れ、できる限り手厚く人員や装備を送り込み、現場で働く人たちの安全や健康に十分配慮しながら、復旧を急いでほしい。


ご存じの方も少なくないと思いますが、福島第一原発の1号機は営業運転開始から今年の3月で丁度40年になり、設計寿命を迎えました。一番若い6号機も今年の10月で32年が経過します。当初の計画通りならば1号機はすぐにでも廃炉となるべきで、他の5基も8年以内にその方向で処分を進めていく必要がある年数を経ています。

そこで、東電は昨年3月に最長60年まで機器および構造物を維持できるとする技術評価書を提出、今年の2月に経産省の原子力安全・保安院が10年間の運転継続を認可したばかりでした。こんな古い原発(推進派は「老朽」という言葉を嫌って「高経年」と言い換えていますが、私はそのような子供騙しの言葉遊びに付き合う気などありませんので、単純に「古い」と表現します)が致命的な損傷を負ってしまいました。

冷却のために海水が注ぎ込まれた段階で推進派の専門家も「廃炉覚悟の緊急措置」と見ていましたし、1・3・4号機は建屋上部が爆発で吹き飛んでしまいました。2号機に至っては原子炉格納容器下部に付随する圧力抑制室(サプレッションプール)が欠損してしまったと見られています。(例の超高レベル汚染水もここから漏れ出していると見られています。)

3月20日の会見で枝野官房長官が廃炉についてアッサリと可能性を認めたのも当然で、同30日に東電の勝俣会長が1~4号機について「廃炉にせざるを得ない」と述べたのはむしろ遅すぎたくらいです。いずれにしても、これ以外の判断は現実的にあり得ませんし、実際に東電が発表した工程表もその判断を前提として作られました。

ところが、件の日経の社説にはタイトルを含めると9回も「復旧」という言葉が用いられていました。単純にこれを書いた論説委員が「復旧」という日本語の意味(広辞苑には「もと通りになること。もと通りにすること。」と書かれています)を知らなかっただけかもしれません。が、これをストレートに受け止めたら「当初の設計寿命に達した古い原発であることも知らず、復旧することが如何に非現実的であるかという思慮を欠いたお粗末な社説」と思われても仕方ない内容になってしまったわけです。

この場合、「復旧作業」ではなく「冷却機能の回復作業」とするなり、「復旧を急いでほしい」ではなく「事態収拾を急いでほしい」とするなり、言い回しには配慮すべきでした。このように言葉の選択を誤った論説は説得力を大幅に低下させます。大手メディアの説得力のなさは流言蜚語を後押しすることに繋がってしまうということを自覚すべきです。

また、テレビの報道番組などに「専門家」と称して登場する人たちの多くが原発推進派に属しているという偏りも疑念を増幅させているものと考えられます。原発に関しては「推進」か「反対」かの二元論になりがちという問題もあります(それ以前に近年の日本では「勝ち組」「負け組」のように短絡的な塗り分けが好まれるという問題もあります)が、推進派の殆どは安全性に関してかなり楽観的です。悪いことにはあまり触れず、良いことを強調する傾向が強いのは言うまでもありません。

ま、これは原発に限ったことではありませんが、そういうときには対立意見も同じレベルで扱ってバランスを取るのがジャーナリズムの原則というものです。しかし、新聞や地上波のテレビ番組など主要なメディアでこの事故を解説している専門家の大半は推進派で、それに比べると反対派や私のような慎重派が出てくるケースは非常に少ないといわざるを得ません。そうした状況から「反対派には無知な素人しかいない」と思い込まされている人も少なくないでしょう。

例えば、NHKには東京大学の岡本孝司氏や大阪大学の山口彰氏らが毎日のように出演していましたが、前者は日本原子力学会の資料「原子炉出力向上に関する技術検討評価」で、後者は「地球温暖化防止技術セミナー ―明日からでは遅すぎる―」(←リンク先はいずれもPDFです)で原発を地球温暖化対策に貢献するものと位置付け、効率の向上や利用の拡大を唱えていることからも明らかなように、バリバリの推進派です。

一方、同じ専門家でも京都大学原子炉実験所の小出裕章氏や今中哲二氏ら原子力安全研究グループの人たち、原子炉の格納容器を設計していた元東芝社員の後藤政志氏ら反対派は地上波にあまり登場せず、出てきても充分な時間配分がなされるケースは少ないように感じます。

後藤氏は日本外国特派員協会に招かれて解説したり、CSやCATVなどのニュース専門局である朝日ニュースターの『愛川欽也パックイン・ジャーナル』にも何度か出演したり、精力的に活動しているようです。が、NHKや保守系メディアではあまり相手にされていないようです。

京大の小出氏や今中氏もテレビ朝日の地上波に数分間のVTRで出演していたのを何度か見かけましたが、講演会やネットTVほど言いたいことを言わせてもらえているという感じではありませんでした。それでも朝日系列は反対派の専門家にも意見を求めているだけマトモで、原発推進を掲げてきた政府の下僕としか見えないNHKより遥かに健全な報道ができているという点では褒めておくべきでしょう。

原発反対派の論客にはノンフィクション作家やフリーランス記者にありがちな過激で脅迫的なパターンも珍しくなく、無責任なことを言う人が時々混ざっているのも確かです。が、当然のことながら反対派でも冷静で的確な指摘ができる専門家はいます。私の見立てでは元東芝の後藤氏などもっと主要メディアに取り上げられてしかるべき人物だと感じました。

彼は福島第一原発の3号機および5号機として採用されたものと同型の原子炉格納容器を設計していた人物だそうですから、設計上の許容値やテストデータなど具体的な数値を熟知しています。そうした値を示しながら公表されている現状の値と比較し、許容値をどれだけ超過しているか、テストデータに照らしてどのような不具合に繋がる恐れがあるかといったより詳細な解説をしていました。

最悪のシナリオについて推進派の専門家はあまり触れたがらない一方、反対派の素人は核爆発というようなあり得ないことまで語るなど両極端になりがちです。が、後藤氏は再臨界についても条件が揃わなければ起こらないので可能性としてゼロではないが、極めて低いとの旨を語り、それよりも水素爆発や水蒸気爆発などによる放射性物質の飛散を心配していました。

例えば、格納容器内には元々窒素ガスが封入されているそうですが、その圧力を下げるために何度か行われたベントのときにその一部も抜けてしまったハズだと後藤氏は指摘していました。水素濃度の上昇によって格納容器内でも水素爆発を起こす可能性について、かなり早い段階から心配していたわけです。実際、東電は4月6日から水素爆発を予防するために窒素ガスの注入を行っていますから、その半月以上前から指摘していた後藤氏は正鵠を射ていたわけですね。

一方、NHKなどで解説する推進派の学者たちは概要ばかりで数値の扱いについても具体的な比較をしないまま「直ちに危機的状況へ至る心配はない」といった表現にとどまることが殆どでした。後藤氏のそれに比べると説得力に欠け、予測も甘いゆえ後追いの説明になることもしばしばです。事故前からそうだった癖が抜けないのか、最悪の状況へ至るシナリオについては触れないか、触れたとしてもお約束の確率論でねじ伏せようとすることが少なくありません。

私が特に疑念を抱いたのは東大の岡本氏に対してで、建屋の地下や坑道(トレンチ)などに高レベルの汚染水が溜まっていることが発覚したときのことです。それまでは汚染水の漏洩について特に触れず、その危険性を指摘することもありませんでした。が、3月24日に3人の作業員が超高レベル汚染水で被曝し、それを排除しなければ作業工程も進まないという状況になってから岡本氏は水を得た魚のようにその解説を始めました。

不審に思って調べて解ったのが上掲のリンク先の資料です。彼は燃料の装荷量を増やして出力を上げても冷却系の管理を上手くこなせば安全に運用でき、原発の利用効率向上に繋げられるという研究をしてきた人物でした。つまり、彼は冷却水が原発内をどのように巡っているのか熟知しており、その管理方法やトラブルのリスクについて評価する専門家だったわけです。

汚染水による被曝者が出てからの彼の解説は実に饒舌で、そこまでの認識があるのなら何故事前に汚染水の漏洩による被曝事故の可能性を厳しく警告しておかなかったのかと思ったほどです。このように、推進派に属する専門家の多くは事前に悪い状況を警告する意識が低く、事故が起こった後になってそのプロセスを解説するということの繰り返しといった印象が拭えません。

大手メディアが起用している解説者は影響力が大きい分だけ慎重で、不確実なコメントは避けていただけと理解する人もいるかも知れません。が、次から次に初めて聞くようなトラブルが起こるより、「このような状況ではこうした事象に繋がる恐れがある」といった具合に、事前から指摘されていたことのほうが初めて直面する問題より冷静に受け止められるものです。このケースでは汚染された溜まり水による被曝事故そのものを回避できていたかも知れませんし。

もちろん、パニックに繋がるような可能性をはらむ情報は扱いに慎重さを要します。が、原発内で汚染水が確認されたくらいでパニックになるとは考えられませんし、実際に汚染水が確認され、作業員が被曝したという事故が起こっても一般市民が恐怖に駆られて大騒ぎしたというような事態に至りませんでした。むしろ、こうした予期できる状況は事前に伝えられていたほうが信頼に繋がっていたかも知れません。

私の見聞きしてきた範囲では朝日系列は比較的バランスが取れている印象ですが、NHKのように「出てくるのは御用学者ばかり」と思われても仕方のないような状況は余計な疑念を与えるばかりです。こうした疑念は流言蜚語にとって最大の推進力になるわけですが、残念ながら多くのメディアにはそのような意識が欠けているようです。

(つづく)
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かくして流言蜚語は横行する (その1)

東日本大震災で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

あれから1ヶ月が経過しました。私の場合、被害といえる程のものは特になく、当日は公共交通機関が全面的にストップしてしまった関係で帰宅するのに大変苦労したということが一番の悪影響だったでしょうか。友人や職場関係者など、日常的に交流のある人たちの多くも大した影響はなかったようです。

が、私の父は福島県南相馬市(旧原町市)の出身で、そちら方面に多数いる親戚は未だ厳しい状況が続いています。一番大変だったのは従姉(私の父の実家を継いだ叔父の娘)で、嫁ぎ先の浪江町が津波で甚大な被害を受けました。彼女もその家族も無事に避難できたのは何よりでしたが、家は流されてしまったそうです。

そのため、実家(私の父の生家でもあります)へ戻ったのですが、翌日の夕方には福島第一原発の避難指示区域が半径20kmまで拡大され、退去を余儀なくされました。避難所生活もシンドイということで、飯舘村にある伯母の家に叔父夫婦と従兄姉とその家族、都合3世帯で身を寄せることになりましたが、飯舘村も一部が30km圏の屋内待避地域となってしまいました。伯母の家は30km圏から辛うじて外れていますが、風評による影響もあったのか、物資の供給不足が続いていたそうです。

そうした事情から飯舘村は栃木県鹿沼市に避難所を確保し、希望者は貸切バスでそこへ移動できることになりました。が、飯舘村が村民のために整えた避難体制だったゆえ、南相馬市民である叔父や従兄一家、浪江町民である従姉一家は対象外ということで、バスに乗ることも許されませんでした。幸い、従姉の旦那さんが情報通だったお陰で何とかガソリンを工面できたため、クルマで首都圏に住む親戚筋などに散らばり、私の実家も叔父夫婦と従兄のお嫁さんとその子供(といっても高校生ですが)の4人を預かることになりました。

今般の震災は揺れそのものによる家屋の倒壊といった被害よりも津波によるものが圧倒的だったようですが、それに追い打ちをかけるような原発事故には身内が大きな影響を受けたこともあって、私も心を痛めています。叔父の家は大きな揺れで一部損傷があったものの、生活には全く支障ないレベルだったといいます。原発事故さえなければ避難する必要もなく、物資が入って来ないといったこともなかったでしょうから、生活も成り立っていたハズです。

現在は一刻も早い収束を祈るばかりですが、家を失った従姉はもちろん、原発から20km圏内で農業を営んできた叔父も元の生活に戻れるかどうか、放射性物質の飛散やそれにかかる風評がどう落ち着くかによって大きく左右されます。残念ながら、南相馬市でも土壌汚染が確認されてしまいましたので、厳しい状況がどれくらい続くことになるのか、廃業を迫られることになってしまうのか、今後の見通しが全く立たなくなってしまいました。

政府はパニックを抑えたいという意向を働かせていたのか、単純に情報収集能力が未熟だったのか、あるいはその両方か、情報不足の感が否めませんでした。それが「重要な情報を隠している」という印象に繋がっていたようにも感じられます。もちろん、本当に隠していたのかも知れませんし、3号機のプルサーマルのように聞かれなければあえて触れないというケースもあったかも知れません。

いずれにしても、情報不足を厳しく批判されたことで善処しようとした結果なのかも知れませんが、次第に情報量は増えていきました。しかしながら、現在でも極めて雑然しており、その質は決して向上していないように感じられます。枝野官房長官などは何度となく流言蜚語に惑わされないよう呼びかけ、ACジャパン(公益社団法人なので政府と直接関係ありませんが)のCMでもその旨を繰り返していますが、流言蜚語が横行してしまう状況というのは情報開示が中途半端だったり、整合性が欠けていたり、錯誤が含まれていたりするときに横行しやすいものです。

そもそも、菅首相や枝野官房長官をはじめとして政府関係者は根拠がないなら気安く楽観的なことを言うべきではありません。例えば、原子炉に海水を注入するというのは廃炉覚悟の最終手段といっても過言ではありません。この注水もご存じのように電源の喪失で既設のポンプが作動しないため、消防車(ポンプ車)を流用するという、極めてイレギュラーな対処法でした。ちなみに、2号機の2度目の空焚きで燃料棒が全面露出したのはポンプ車の燃料切れに気付かなかったという不注意が招いたものだったそうです。

もちろん、既設のポンプが止まっている以上は本来のルートでキチンと水が巡るということもないでしょう。注いだ水がどこへ行くかといったことも当初はロクに考慮されていないようでしたから、様々な問題が次々に噴出していったわけですね。初期に行われたヘリコプターや放水車などで外から海水をぶっかけるという極めてプリミティブな施策も、他に即応できる有効な手立てがなかった泥縄状態を示す証左です。

枝野官房長官は3月13日に「原子炉はコントロール下に置かれている」などと言い張りました。これはヘリコプターや放水車が投入される前で、それこそポンプ車によるイレギュラーな注水くらいしか行われていない綱渡り状態だったときの発言です。こんな弁解にもなっていないハッタリを真に受けるほど国民は莫迦じゃありません。また、彼は同じ日に「水素が漏れている可能性があるが、ベント(排気)しているから(大丈夫)」ともコメントしていましたが、翌日に3号機の建屋上部が水素爆発で吹き飛んでしまいました。

他にも色々ありますが、3月21日の午後4時から開かれた緊急対策本部で菅首相が「まだ危機的状況を脱したというところまでは行っていないが、脱する光明が見えてきたということは言える」と発言したのも明らかに早計した。それは3週間が経過した現状を誰がどう見ても明々白々でしょう。

彼は海水の注入で原子炉の温度に低下傾向が見えてきたことからそのような発言をしたようですが、核反応が停止しても崩壊熱は何年も出続けます。冷却とのバランスが取れなければ温度など簡単に変動してしまうという極めて初歩的なことすら知らなかったのでしょう。実際、その3日後には1号機の炉内温度が400℃まで上昇してしまいましたし。

しかも、彼が「光明が見えてきた」と発言したのと同じ日、ほぼ同じ時間帯に3号機から灰色の煙が発生し、しばらく全作業員を避難させるという事態になってしまいました。彼の「光明」発言と、発煙による退避で作業中断を余儀なくされた模様が夕方のニュースで同時に伝えられるというお粗末な結果になってしまったわけです。このように菅首相や枝野官房長官は個人的な印象で安心できる状態かと勘違いさせるような発言を繰り返していましたが、ことごとく裏目に出てしまったといっても過言ではないでしょう。

現在も1~4号機についてはイレギュラーな注水で何とか温度を維持しているに過ぎず、いつになったら冷却水の循環システムが必要なレベルで動かせるようになるのか、その目処は全く立っていません。また、タービン建屋などに溜まった極めて高レベルの汚染水を排除しない限り作業員の被曝量管理が難しい状況になってしまい、その汚染水を復水器に汲み出すまでに幾つものハードルを越える必要が生じてしまったのもご存じの通りです。

その高レベル汚染水が海にダダ漏れになっていたり、それを塞き止めるのに4日も費やすことになったり、やっと止めることができてもキチンとした管理下で貯蔵できる準備に時間がかかったり、貯蔵できる水の量に限りがあるため低レベルの汚染水を海洋投棄するという前代未聞の暴挙に出るなど、問題が次々に山積されていき、殆ど進捗を見ない状況に陥っています。作業が進むにつれ、悪条件が幾重にも重なっているということが次第に解ってきたわけですね。そのうちの幾つかは単純な判断ミスに起因しているものもあるでしょう。

こうした状況は専門家たちも予期できていたとはいえませんから、政治家ごときにキチンと見通せとまではいいません。が、そうした見通しが立っていないなら尚更のこと、軽口は慎むべきです。総理大臣や官房長官という国家の最高責任者たちの発言が流言蜚語と同レベルのアテにならないものだったということが続けば、「何を信じたら良いのか解らない」と国民が思ってしまうのは当然の帰結です。

良い情報も悪い情報も隔てなく、キチンとした根拠を元に正しく詳細に開示され、それが周知徹底されていれば、いい加減な憶測から生じた流言蜚語が付け入る隙は生じにくくなるものです。流言蜚語や都市伝説の類が横行している状態というのは、適切な情報が充分に行き渡っていない状態の裏返しと考えるべきです。「流言蜚語に惑わされるな」という前に、そのような状況に陥っているのは自分たちの対応や認識の甘さにも大きな原因があると自覚しなければいけません。

こうした準備不足・勉強不足は当然のことながらメディアにもいえます。当初は放射線量の情報を伝える際にも「何マイクロシーベルト」とか、「何ミリシーベルト」というのみで、「毎時」なのか「毎分」なのか「毎秒」なのか、時間の単位が伝えられない非常にいい加減な報道が続きました。時間の単位が違っていれば数値が示す意味も桁違いになってしまうわけですが、当初はそうした点が忘れられることも決して少なくありませんでした。

また、そうした基本が解っていない記者が多かったゆえ毎時の放射線量と一瞬でしかないレントゲン撮影時の被曝量とを比較し、「レントゲン撮影の何分の一だから直ちに健康に影響を与えるレベルではない」などと積算被曝量を無視したお粗末な記事が横行してしまったのです。

こうしたことも散々突っ込まれたせいか、テレビでも放射線量を伝える際に「この数値は毎時のマイクロシーベルトです」といった感じで強調されるようになっていきました。が、それは混乱しがちな初期段階でこそデリケートに扱われるべき部分でした。文系出身が圧倒的に多いメディア関係者は今回の事故で初めてこうした基礎を知り、指摘を受けながら報じ方を修正しているといったところでしょうか。当blogでは何度となく述べてきたことですが、「若者の理科離れ」を憂うよりも、「メディアの理科オンチ」を先に何とかすべきです。

(つづく)

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まとめ

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