元東芝の後藤氏は現役時代から僅かでもリスクがあると考えられることに対して軽んじることはできなかったといいます。しかし、従来の「想定」に疑義を唱えても、「若手が怖がるから」と議論を止めるよう諭されたり、「確率の低いことに拘っていたらキリがない」と切り捨てられたり、社内でも空回りしていたようです。
何より、彼も一介のサラリーマンだったわけですから、誰もが日々ぶつかっている立場上の壁もあったでしょう。また、東芝も所詮はプラントメーカーに過ぎませんから、法律の許す範囲でクライアントである電力会社の意向に逆らうことは難しかったと思います。どこまでの裁量が認められていたのか外部からは想像に委ねるしかありませんが、後藤氏が反対活動を展開するようになっていった背景に相応の鬱積があったのは間違いないでしょう。
後藤氏と同じく、メーカーを辞めてから反対活動を展開するようになった人物として
バブコック日立の社員だった田中三彦氏などもその筋では知られています。彼は福島第一原発4号機の圧力容器の製造に関わり、熱処理段階のミスによる歪みで法律の規定する真円度が維持されなかったことと、メーカーの独断で極秘裏にその歪みを修正する熱処理のやり直しが敢行されたことなどを告発した人物です。(その詳細は『
原発はなぜ危険か―元設計技師の証言』という著書に詳しく書かれています。)
現在、田中氏は科学ライターとして翻訳や著述活動をしているそうですが、そのキャリアやこれまでの活動を踏まえれば、今般の事故についても弁を振るうべき人物の一人だと思われます。が、彼に対する取材もあまり見かけず、主要メディアからは殆ど相手にされていないという印象が拭えません。「内部告発をした人間は干される」という日本の悪弊がここにも出ているのでしょうか?
それはともかく、後藤氏や田中氏ら元インサイダーたちの証言は、推進派のいう安全性が「すべての可能性を考慮したものではなかった」ということを色濃く滲ませています。原発の安全性に関する「想定」というのは、より安全側に立った意見が尊重されないことも少なくないようです。保安院も「安全だと思っていた基準が不十分だった」と想定の甘さを認めていますし。
JCOの臨界事故や新潟県中越沖地震のとき柏崎刈羽原発で生じたトラブルなど、日本で起こった原子力関連事故の多くが「想定外」で起きてきたのは何故なのかも彼らの言葉に耳を傾ければ合点がいきます。推進派のいう「想定外」とは「想定できなかったこと」ではなく、解っていながら故意に「想定から外したもの」も少なからず含まれていると思っておいたほうが良さそうです。
原発は安全だと言い張ってきた人たちは「何万年に1度しか起こらない」とか、「何億分の1の確率」といった表現をしきりに用いてきましたが、前提条件が根本的に間違っていればその確率論は全く意味を持ちません。例えば、ネットを眺めると今回の原発事故と1985年に起こったJAL123便の墜落事故との対比を幾つか見かけました。「フェイルセーフ」という思想で複数の系統を確保していながら、それが全て一つのトラブルで破綻してしまったところが共通しているという視点です。
JAL123便墜落事故の場合、当該機(B747SR-JA8119)は操縦系油圧システムを4つ備えており、それらが全てダウンしてしまう確率はゼロに近いと考えられていました。しかし、墜落事故の7年前に起こした尻もち事故が巡り巡って厳しい現実を突きつけたと考えられています。尻もちによる破損の修理が不適切で、後部圧力隔壁が疲労破壊を起こし、その付近を通っていた油圧システムを4系統とも奪い去り、操縦不能に陥ったとの見方が支配的です。
今般の原発事故も電源の喪失が根源との見方が支配的です。各炉とも外部電源とディーゼルエンジンによる自家発電装置2台で3系統、非常用炉心冷却装置(ECCS)にもバッテリーを含む4系統の備えがあるため、全てが作動しなくなる確率はゼロに近いとされていたわけです。が、ご存じのように津波による冠水などで破綻するという脆弱性が考慮されていなかったわけで、この確率論は根本から間違っていたことが明らかにされたわけです。
しかも、こうした事態は世間一般に「想定外」だったと喧伝されてきましたが、実際には津波についても電源の脆弱性についても、既に外部から複数回にわたって指摘を受けてきたことであり、東電はそれを有耶無耶にしてやり過ごしてきたという経緯があります。
津波については東北地方だけでも今回の福島第一原発を襲ったそれより波高の高いものが何度も襲来していました。この史実は民放の報道番組でも示されてきましたから、皆さんもご存じのことと思います。こうしたことを東電サイドが知らなかったということもなく、最近では2009年6月に開かれた原子力安全・保安部会でも地質学者から指摘されていたといいます。
また、電源喪失についても前々からアメリカの原子力規制委員会(NRC)に指摘されていたといいますし、2010年10月にも原子力安全基盤機構から指摘を受けていたといいます。つまり、今回の事故に至った要因は「想像すらできなかったこと」ではなく、具体的な指摘がなされていながら検討を怠っていたと見て間違いなさそうです。東電のいう「想定外」の事故原因は「想定できなかったこと」ではなく、「故意に想定から外していた」ということになるでしょう。
推進派の中には今回の事故を「1000年に1度の天変地異によって引き起こされたもの」といった論旨に世論を従わせたがっている人もいるようですが、それは極めて程度の低いハナシのすり替えです。こんな莫迦げた詭弁にすらなっていない屁理屈に乗せられるのは実に愚かなことです。
ところで、京大の小出氏をはじめとして、反対派の専門家たちは保安院が国際原子力事象評価尺度(INES)に照らした暫定評価を当初「レベル4」としていたことに強く異議を唱えていました。スリーマイル島のそれが「レベル5」でしたから、保安院はそれよりも程度が一段低いと評価していたわけです。が、反対派の専門家たちは初めからそんな判定は論外だと厳しく批判していました。
というのも、スリーマイル島の事故は緊急停止に成功しながら給水ポンプが停止して冷却不能に陥ったという点で今般の事故とよく似ていますが、電源は失っていませんでした。ですから、原子炉の状態についてそれなりにモニターすることができていましたし、ポンプも2次冷却系のメインポンプは故障しましたが、全てを失ったわけではありません。トラブルに見舞われた原子炉も2号機の1基だけで、それに集中すれば良かったという点も大きく異なります。
一方、福島第一のそれは電源の喪失などで中央制御室も使用不能となったため、多くのセンサー類を失い、原子炉の状態は圧力や温度など断片的な情報から推測するしかない状況が続いています。さらに、ポンプも消防車のそれで代用するような状況に陥ったことをはじめとして、冷却システムがほぼ全般的に機能しなくなりました。しかも、複数の原子炉と使用済み燃料プールで同時に温度を制御できなくなったゆえ、同時に対処しなければならないという事態に至りました。
誰がどう考えても福島第一原発が置かれた状況はスリーマイル島のそれを遙かに上回る悪条件が重なっているのは最初から明らかでした。そのせいか、フランスの原子力安全局は当初からこの事故を「レベル6」以上に達すると予測していました。日本の保安院は事故発生から1週間後となる3月18日になってようやく暫定評価をスリーマイル島と同じ「レベル5」に引き上げました。3月27日の会見で「レベル6」に引き上げる可能性も示唆されたものの、半月放置され、4月12日になっていきなり「レベル7」に引き上げられたという経緯になります。
私はその19日前、3月24日の段階で所外評価が「レベル7」に達していることに気づいていました。というのも、この日に内閣府の原子力安全委員会が外部放出されたヨウ素131は3~11万テラベクレルという推測値を発表していたからです。この値の低いほうをとってもINESの「レベル7」の基準となっている「ヨウ素131等価で数万テラベクレル相当の放射性物質の外部放出」に達していますし、このデータには海に漏洩したり投棄した分やセシウムなど他の放射性物質は含まれませんから、それらも含めればもっと悪い値になっていたのは確実です。
ただし、「レベル7」の所内評価は「原子炉や放射性物質障壁が壊滅、再建不能」となっており、そこまで至っているのかどうか公開されていた情報では判断が難しいと考えていました。東電の勝俣会長が1~4号機の廃炉を認めた点を汲めば「再建不能」と見なせましたが、「原子炉や放射性物質障壁が壊滅」というレベルに至っているのか否かの判断は困難でしたから、こうした部分については微妙であると感じていたわけです。
いずれにしても、3月下旬の段階で所外評価も所内評価も「レベル6」以上であるのは確実でした。4月12日なって一気に2段階引き上げられたのには少々驚きましたが、所外評価に関してはその3週間近く前に「レベル7」相当に達していたデータが公表されていたのですから、4月12日まで保安院の判定が過小評価に偏っていたのは明らかでした。
ちなみに、ロシアの国営原子力企業ロスアトムの広報はこの福島第一原発の事故を「レベル6」に達していないという無責任なコメントを出しましたが、これはINFの基準を正しく解釈していない放言に過ぎません。恐らく、こうした過酷事故の評価が悪いほうに振れることで脱原発の流れが全世界的に進み、彼らが商売していく市場が縮小することを懸念した保身のためだと考えるのが妥当なところでしょう。(原発推進に熱心な産経新聞は嬉々としてこのコメントを伝えていましたが。)
散々語り尽くされているように、「レベル7」に相当する原発事故は過去にチェルノブイリしかありません。が、INESに照らしたこの評価を以て「並んだ」とする表現には些かセンセーショナリズムを感じてしまい、私も少し抵抗を感じます。一方、福島第一原発の事故をチェルノブイリと比較すること自体タブー視する人もいますが、その言い分についても私には許容できない部分があります。
チェルノブイリとの比較を嫌う人たちは、炉型が違うとか、アチラは格納容器が存在せず、露天で臨界状態となったまま放射性物質を爆発的にまき散らしたとか、アチラは28人が急性放射線障害で死んでいるけどコチラはゼロだとか、様々な状況が全く違っているから比較するなどナンセンスだというわけです。もちろん、そうした観点での比較は私も意味が薄いと感じますが、事故による周囲への影響やその対処方法など、比較する意味がないとはいえない側面も色々あると考えています。
チェルノブイリは爆発的に放射性物質をまき散らしましたが、福島第一原発はジワジワとであっても長期戦が避けられない状況にあります。福島第一原発にはチェルノブイリの数倍になる放射能があるそうですから、手立てを誤れば最終的にチェルノブイリを超える放射性物質の漏洩に繋がる可能性もゼロとはいえせん。それは東電自身も認めていることで、周辺への影響についてはチェルノブイリとの比較を忌避すべきではないでしょう。
こうしてみますと、京大原子炉実験所に所属する人たちは早い段階から鋭い指摘をしていたと思います。例えば、今中哲二氏は飯舘村の土壌で計測されたセシウム137の値16万3000Bq(ベクレル)/kgは326万Bq/m2に相当するとしています。これはチェルノブイリ事故当時のソ連で強制移住の基準となった148万Bq/m2の2倍を超え、後にベラルーシで強制移住の基準となった55万5000Bq/m2の6倍近い値になります。
この指摘が正しければ、日本政府が4月11日付で同市に対して概ね1ヶ月以内に避難することを求める「計画的避難区域」と定めたのは、チェルノブイリで「強制移住」とされたケースと比べてかなり悠長な判断であるということが鮮明になってきます。チェルノブイリとの比較をナンセンスだと切り捨て、タブー視してきた人たちは、こうした視点も初めから放棄していたということになるわけです。
いずれにしても、当初の「レベル4」は誰がどう考えても言語道断な過小評価でしたし、「レベル6」をすっ飛ばしていきなり「レベル7」に引き上げたのも粗雑としか言いようがありません。それに加えて、主要メディアに露出してきた推進派の専門家たちで当初の大甘な判定について批判している人を私は見た記憶がありません。
朝日系列を除く主要メディアにはあまり出てこない反対派の専門家たちは、初めから政府の過小評価を厳しく批判していました。この点についても彼らのほうが早い段階から正しい指摘をしていたと見なせます。このような「テレビや新聞に出てくるのは御用学者ばかり」と思われても仕方のない状態は今回もネットを中心に広く知られることになりました。
ネットで知れ渡るようになった偏向報道といえば、国内での反原発デモを主要メディアは殆ど報道しなかったという点も指摘しておかなければならないでしょう。ドイツで25万人規模の反対デモが行われたのを筆頭に、この事故をきっかけとして脱原発を求める運動は海外でも盛んに展開されており、その様子については日本のメディアもそれなりに報じていました。
一方、都内だけでも3月20日に渋谷で1000人規模、3月27日に銀座(東電本社前を経て日比谷公園まで)で1200人規模、4月10日には高円寺で1万5000人規模、同日芝公園で2500人規模、4月16日に再び渋谷で1500人規模のデモが行われましたが、その扱いは海外のデモに比べると等閑に過ぎます。日本でもこの事故をきっかけとして脱原発を求める気運が高まっていったのは紛れもない事実ですが、主要メディアはあまりそこに触れたくないかのようです。
東京以外でも、札幌、青森、鎌倉、甲府、名古屋、富山、京都、大阪、熊本、沖縄など、私も把握し切れていませんが、全国的にこうした原発に反対するデモや集会は行われたようです。が、国内の主要メディアはこうした反対運動を実質的に黙殺しました。中国で数百人規模の反日デモが行われただけでも漏らさず伝えておきながら、
例の尖閣沖衝突事件のときに日本国内で行われた反中デモはスルーしたあの偏向報道と同じことを今回も繰り返したわけです。
日本の主要メディアがあまり取り沙汰しなかったのですから、海外にもその詳細は殆ど伝わらなかったようで、日経ビジネスオンラインの『
脱原子力政策を加速させるドイツ』という記事にも以下のように書かれ、日本人はこれほどの重大事故を経験したのに異様に大人しいと理解されているようです。
菅首相の要請を受けて、中部電力が浜岡原子力発電所を停止した。このニュースは私が住んでいるドイツでも大きく取り上げられている。これまでドイツ市民の間では、「日本では福島第1原子力発電所で大事故があったにもかかわらず、なぜ激しい原発反対運動が起こらず、原発停止などの措置が取られないのだろう」と不思議に思う市民が多かったからである。
しかし、実際には渋谷のデモで警察と揉み合いが起こり、2人が公務執行妨害の容疑で逮捕されるなど、決して穏やかでない反対運動もありました。もちろん、私としては反対運動が紳士的でない状態になってしまったことについては残念に思いますが、こうしたエピソードは殆ど話題にされず、世の中的には事実上「無かったこと」にされてしまったという印象が拭えません。
このような報道管制とも取れる状態も「隠し事をしているに違いない」という疑心暗鬼を誘発させたり、「何を信じたら良いのか解らない」という混乱状態を助長したりして、流言蜚語を強力に後押しするのです。
(つづく)
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