
Toyota 7
従前の日本グランプリはFIAのマニファクチャラーズ選手権、つまりル・マン24時間を中心に据えた耐久レースに準拠するレギュレーションでした。が、1968年に突如としてCAN-AM(カンナム)シリーズに準拠するレギュレーションへ変更されました。そのため、主役だった日産やトヨタといったワークスチームをはじめ、各コンストラクターは対応に追われたそうです。写真のトヨタ7もこれに対応したマシンで、5リッターV8をさらにツインターボで過給するエンジン(一説には800psとも)が搭載されています。

CAN-AMシリーズというのは、正式名称を「カナディアン・アメリカン・チャレンジカップシリーズ」といい、1966年からアメリカとカナダで開催されるようになったレースです。賞金総額も当時の世界最高を誇り、最も人気を博したイベントでもありました。グループ7の排気量無制限という現在では考えられないレギュレーションだったゆえ、1000馬力を超えるポルシェ917などのモンスターマシンが活躍していたんですね。
恐らく、こうした弾けっぷりから興行的にも隆盛を極めたCAN-AMシリーズを横目で見て、日本でもこれに続こうといった思惑が働いたのかも知れません。が、1970年に日産は排ガス規制の対応に専念するといった理由から撤退、トヨタもこれに続きました。
また、トヨタワークス関しては自工と自販の2チーム体制でしたが、ドライバーが死に過ぎました。1965年に鈴鹿で浮谷東次郎がこの世を去り、1969年にはヤマハのテストコースで行われていたテスト中、当時絶大な人気を誇っていた福沢幸雄(福沢諭吉の曾孫)が亡くなりました。1970年にも川合稔が鈴鹿で命を落としています。こうした暗い影もレース活動の継続には重い十字架となっていたような気がします。
トヨタ7はそういう意味で時代の徒花だったかも知れません。が、それ故トヨタのモータースポーツ史上、最も伝説的な1台になったといえるかも知れません。
さて、今回は6GBのマイクロドライブを持って行きましたし、時間もたっぷりありました。なので、展示車両すべてを撮影し、述べ720枚を超える写真があります。これまでご紹介したのはほんの極々一部ですが、このままのペースで続けていけばキリがありませんので、いい加減総括して終わりにしようと思います。
タイトルにもあるように「フェラーリもポルシェもない」などと散々文句を垂れましたが、こうした博物館運営という文化活動を20年近くも継続してきたのは非常に意味のあることだと思います。
同館は昨年4月にオープンからの入場者数が400万人を突破したそうですから、毎年の平均入場者数は22万人程度になります。仮に全ての入場者が割引なしの大人料金(1000円)だったとしても、これまでの入場料収入は42億円そこそこといったところでしょう。もちろん、実際にはもっと少ないのは間違いありません。
経済誌『財界』の元記者で経済評論家の梶原一明がオープニングセレモニーのとき豊田英二に「建設費はどれくらいかかったの?」と問うたところ、50億円との答えだったそうです。要するに入場料だけではドンガラの分もまだ償却できていないということですね。

あれだけのビンテージカーを買い集めるのにかかった費用は見当も付きませんが、展示車両は基本的に動体保存ですから、全てではないにしても多くのクルマは実際にエンジンをかければ走る状態に整備されているといいます(実際、私が行った当日も数台が整備中で、写真展示になっていました)。
他にも施設の保守管理、案内スタッフや警備員の人件費、固定資産税等々、コストはかなりの額に上るでしょう。売店やレストランもありますが、その売り上げなどもたかが知れていますから、大した足しにはなっていないと思います。
こうしてみるとトヨタ博物館は独立採算ではなく、かなりの部分がトヨタ本体から拠出されているものと思われます。トヨタクラスの巨大企業にしてみれば、こうした企業メセナ(といえるほど純粋ではないかも知れませんが)を行っていくことは自慢するほどじゃないかも知れませんが、クルマを愛する者としては大変有り難いことだと思います。
実は私がここに訪れるのは今回で3回目です。展示内容は特別展を除いてあまり変わり映えしませんが、最後に来たのは6年前でしたし、それ以前も同じくらい間が空いていたと思いますので、その間に記憶もかなり薄れていきます。そういう意味でも丁度良いタイミングだったかも知れません。個人的には東京モーターショーなどよりずっと楽しめますしね。

何年かして古き良き時代のクルマたちが恋しくなったら、またここを訪れたいと思います。
(おしまい)