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乗せられた者は乗せた者に勝てない

先日、日本の地球温暖化対策について「魂がこもる」かどうかという精神論を展開していた日経新聞の社説を批判しました。このとき、「これは日経に限ったことではなく、殆どの大衆メディアについていえること」と述べましたが、産経新聞はずっとマトモな考え方ができているようです。

温室ガス中期目標 数値の背比べは国益失う

 2020年までに二酸化炭素に代表される温室効果ガスを、日本国内でどの程度削減するかという中期目標について、6つの案が示された。

 首相官邸の「地球温暖化問題に関する懇談会」によってまとめられた選択肢である。1990年比で、25%減らすものから逆に7%増える案まであって幅は広い。

(中略)

 日本が定めようとしている中期目標は、COP15に向けた国際交渉で意味を持つものだ。地球環境問題での主導権獲得に意欲的な欧州連合(EU)は、すでに20~30%減という目標を示している。

 日本もそれに準じるか、それ以上でなければならないという声がある。本当にそうだろうか。ここは冷静に考えることが肝要だ。

 日本が出している温室効果ガスは、世界全体の約5%にすぎない。しかも率先して省エネを進めてきた。必死の努力でさらに50%の削減を達成しても世界の排出量のわずか2・5%が減るだけだ。それぞれ20%前後を占める米国や中国の半減とは意味が違う。

(中略)

 もう一度、提言しておきたい。ムードにあおられ、高すぎる中期目標を設定することは禁物だ。日本が過重な負担を抱え込んだ京都議定書の二の舞いは避けたい。

(C)産経新聞 2009年2月15日


環境問題に対して中途半端な興味しかない多くの人は、その対策の具体性や実効性や実現可能性はもちろん、それ以前にその現象が環境問題として成り立つものなのかという根本的な部分に対する科学的な理解も不充分だったりします。こうした人たちは「環境保護」という美名の下にパワーゲームが繰り広げられていても気付くことはまずありません。彼等の殆どはイメージキャンペーンに過ぎないものでも正義であると盲信していますから、「国益」という言葉を聞いた瞬間に拒絶反応を示すでしょう。

産経新聞の社説の見出しは禁句にも近いその言葉が用いられているところから画期的ともいえます。が、これは逆に本文を読む前から強い先入観を与え、大きな反感を買ってしまう恐れもあり、「諸刃の剣」的な難しさがあるように感じます。とはいえ、内容については欧州諸国の理論に乗せられてしまった日経新聞のような精神論ではなく、殊に「日本が過重な負担を抱え込んだ京都議定書の二の舞いは避けたい。」という結びの一文は、こうした認識が全くできていない多くのメディアと一線を画すものと評価すべきでしょう。

そもそも、京都議定書は従前から酸性雨問題など越境環境問題をツールとしたパワーゲームで交渉戦術を鍛え上げてきた欧州諸国にまんまと乗せられた不平等な取り決めだったと見るべきです。京都会議が開催されたのは1997年の12月ですが、温室効果ガスの排出削減義務の基準年が1990年とされたのは、彼等にとって極めて好都合な条件だったからです。

日本のエネルギーコストの高さは世界屈指で、それゆえ非常に早い段階から省エネを徹底してきました。また、日本国内の石炭産業は1980年代に「輸入炭との競争条件の改善はみこめない」という政府の縮小方針から一気に衰退しました。相対的にCO2の排出量が多くなる石炭から石油や天然ガスへの切り替えが進められ、一つの資源に偏らないバランス重視のエネルギー政策も展開されてきました。

京都議定書の基準年となっている1990年には、日本の一次エネルギー供給に占める石炭の割合は16.6%まで低下していました(ま、その後は石油の割合を10ポイント近く引き下げてきた絡みもあり、石炭の割合は増えていますけどね)。一方、当時のドイツは27.0%、イギリスも21.4%と、石炭依存の割合が日本より大きく、CO2排出量の削り代が大きかったのは間違いありません。

また、よく耳にするのが「東西ドイツの統一がまさに1990年で、これ以降に旧東ドイツの非効率な工場が旧西ドイツ側の技術を投入した効率の良いものに切り替わっていった」というストーリーです。ま、これなどは大局的すぎる印象が強く、どれだけ信頼すべき要素と見るか難しいところではありますが、いずれにしても欧州諸国がエネルギー効率の改善に向けて本格的に動き始めたタイミングが日本よりずっと遅かったのも間違いありません。

それまで日本ほど省エネに積極的ではなかったヨーロッパの-8%に対し、より先行していた日本が-6%という大きな負担を約束した京都議定書は、決して公平なものではなかったと見るべきです。そもそも、この-6%という数値は環境省(当時は環境庁)の大雑把な試算こそありましたが、その中身は極めて抽象的で、逆に具体的な積算を行っていた経産省(当時は通産省)の「現状維持が精一杯」という意見を全く無視したものでした。そればかりでなく、-6%でどれだけ温暖化の抑止に効果があるかという科学的な検討も全く成されていない、単なる精神的な目標に過ぎませんでした。

現在でも、GDP当たりの一次エネルギー消費量で日本に敵う省エネ先進国はないでしょう。日本より進んだ環境保護立国と信じられているドイツでさえ、GDP当たりの一次エネルギー消費量は日本の1.4倍を超え、省エネに関してはまだまだ大きく劣っていると言わざるを得ません。

GDP当たりの一次エネルギー消費量

こうしてみれば、産経新聞の「必死の努力でさらに50%の削減を達成しても世界の排出量のわずか2・5%が減るだけだ。それぞれ20%前後を占める米国や中国の半減とは意味が違う。」という主張は正鵠を射ており、自国内の排出量削減に大きなパーセンテージを掲げることが国際貢献に繋がると信じている人たちがどれだけ短絡思考に陥っているか解るというものです。

私は地球温暖化が人為的に引き起こされた気候変動であるとする仮説は全く支持していませんが、いずれ枯渇する化石燃料の消費を削減していこうとする努力は大切なことだと考えています。ここで本心から化石燃料の消費削減を進めていこうと思うのなら、国を問わず削減できる見込みの大きい部分から手を付け、日本で早くから導入されてきた先進的な省エネ技術を広く世界へ展開していくほうがより効果的であり、実効性の高い対策となるのは間違いありません。

しかしながら、欧州諸国はひたすら国別の削減義務にこだわり続けています。しかも、20年近くを経た現在もなお、彼らにとって都合の良い1990年を基準年として譲る気は微塵もありません。それは「CO2排出枠」という名を借りた「化石燃料消費枠」を定め、安価で埋蔵量が豊富な石炭資源を悪者とすることで、先進国はずっと先進国であり続け、後進国はずっと後進国であり続けるよう、不平等な国際規範を定めるのがその目的だからなのでしょう。彼等が独善的な規範を創り上げ、世界を席巻してきた事実は一般的な世界史の教科書を見ても解ることです。

折角、化石燃料依存を抑える良い契機を迎えているのですから、日本は無様な「事なかれ主義」を捨てるべきです。相手を出し抜く交渉術を競ってきた欧州諸国を相手に真正面からぶつかっていくならば、かつて捕鯨問題で欧米諸国からもタフネゴシエーターとして一目も二目も置かれた小松正之氏のような人材を起用していく必要があるでしょう。が、その小松氏もまた「事なかれ主義」によって潰されてしまいましたから、日本政府にそのような高望みをするのは無理なのかも知れません。

産経新聞のような意見は少数派で、多くは欧州諸国の理論に乗せられています。その時点で既に勝負は付いているのかも知れません。

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まとめ

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