酒と蘊蓄の日々

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それでもボクはやりたくない (その3)

前々回のおさらいになりますが、裁判員制度が導入される理由を箇条書きにしますと以下のようになります。

(1) 国民の視点や感覚が裁判の内容に反映される
(2) 裁判が身近になり、司法に対する国民の理解と信頼が深まる
(3) 国民が社会について考えるようになり、より良い社会への一歩となる
(4) 欧米などでも国民が裁判に参加する制度がある

(1)の理由に掲げられている国民の視点や感覚が「裁判の内容」に反映されることが期待されているわけですが、二審以上に裁判員は参加できませんから、最終的に裁判所がこれを無視しようと思えば無視できてしまえる「骨抜き」にされた仕組みになっているのは前回述べた通りです。

仮に、私たち国民の「視点や感覚」がちゃんと反映されることがあったとしても、その対象が極端すぎるというところがまた釈然としません。ご存じのように、裁判員制度の対象となる事件は何故か私たちの日常生活から最もかけ離れた「殺人」や「強盗致死」や「傷害致死」などの凶悪犯罪が中心になります。

私たち一般市民の「視点や感覚」を生かしたいというのに、また(2)の理由に掲げられているように裁判を「身近に」したいというのに、殺人事件など私たち善良な市民にとって極めて非日常的で、普通に暮らしていれば殆どの人は生涯関わることのない事件の刑事裁判を扱わせるのは何故なのか全く以て理解できません。こうした事件は私たちにとって極めて縁遠いものですから、そこに生かすべき「視点や感覚」など普通の生活を送って養われるものではありません。

もし、本当に一般市民の「視点や感覚」を生かし、裁判を「身近に」したいというのであれば、まずは民事裁判にこそ裁判員制度を導入すべきでしょう。

テレビでも司法判断について考えさせる番組がいくつかありますが、レギュラーとなっているのは例えばNHK大阪放送局の『生活笑百科』とか日本テレビの『行列のできる法律相談所』とか、いずれも「民事紛争を司法はどう解決するか」がテーマです。私たち善良な一般市民にとって身近な司法というのはこういうものであって、殺意の認定だの何だのといったハナシは最も縁遠い世界です。

また、(3)の理由に掲げられているように「国民が社会について考え、より良い社会への第一歩」としたいのであれば、殺人事件などの刑事事件を扱わせても殆ど意味がありません。むしろ国や地方自治体などの対応の不手際や、誤った政策などによって不利益を被った被害者が損害賠償を求める民事裁判、あるいは住民訴訟のほうが、よほど社会の在り方について考える良い機会につながり、「より良い社会への一歩」となるハズです。また、こうしたケースこそ一般市民の「視点や感覚」を反映させるべきです。

また、行政の政策や対応などが憲法に反するか否か、即ち違憲審査が含まれる裁判も「より良い社会」の在り方を国民に考えさせるには極めて重要なことですが、やはりこれも裁判員制度の対象とはなり得ません。導入の理由として「国民のみなさんが、自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。」と謳っておきながら、社会にとって殺人事件などより遙かに重要な司法判断については裁判員に触れさせないという大きな矛盾を抱えているわけです。

こうした民事裁判や住民訴訟、違憲審査を含む訴訟は除外され、対象とされたのは刑事裁判で、しかも真っ先に来るのが「殺人」となっているのは何故でしょう? 制度を導入する趣旨を最大限に汲むなら、上述のような民事裁判等こそ対象にすべきですが、そうしない理由は全く説明されていません。私の目には趣旨が掲げている思想と制度の中身は絶望的なまでに乖離しているようにしか見えません。これを「欺瞞」といわずして何と評したら良いのでしょうか?

あくまでも個人的な感想ですが、そもそも上記4つの導入理由のうち、特に(2)と(3)などは学生運動のごとき青臭い理想論にしか見えません。(4)にあるとおり、欧米などでも国民が裁判に参加する制度はありますが、世界広しといえど、「裁判を身近に」などという理由を掲げている国は日本以外にないでしょう。日本以外の国で陪審制・参審制が導入されているのは、前々回の冒頭に掲げたこの格言につながるものといって良いと思います。

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」

欧米で一般市民が裁判に参加する制度が導入された背景には、民主化以前の国家弾圧に散々苦しめられてきた歴史が深く関わっています。国家権力の行使によって侵害されてきた市民の人権を守るため、国家による不当な司法判断に偏らないようにするため、市民が裁判に参加するということが陪審制・参審制導入の根源的な理由です。

しかし、日本の裁判員制度にそのような趣旨は伺えません。上記(1)の理由がそれに近い雰囲気もありますが、前回も述べたように国民の2/3が無罪と思っても裁判官の意見が揃ってしまえばそれを覆すことはできず(有罪の場合は裁判官が1人以上有罪を支持しなければなりませんが)、仮に裁判官の判断を覆すことができたとしても控訴が認められた瞬間に裁判員の出る幕はなくなります。

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の精神を理想とするなら、裁判員制度はこれと180度逆の方向へ進んでしまう恐れがある致命的な欠陥があります。 それは裁判員制度導入に先立って「公判前整理手続」という、ゆゆしき制度が導入されてしまったからです。

(つづく)

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