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裁判員制度の本当の問題点は何故看過されるのか (その3)

日本司法支援センター(法テラス)によれば、国選弁護人の報酬は今回のように3日間の審理とその翌日に判決が下されるような裁判員裁判を担当すれば40万円台になるといいます。もちろん、弁護人は裁判が開かれる前から様々な準備をしなければなりませんから、公判期日の4日間働けばよいというわけではありません。しかも、この報酬というのは交通費など一切合切の経費を含めたものです。

一般的に弁護士は所属する事務所の運営費などもこうした報酬で賄わなければなりませんから、満額が自分の自由にできるお金になるわけではないでしょう。ま、この辺はケースバイケースかも知れませんが、国選弁護人など片手間でやるような仕事ですから、普通の民事裁判などに比べればあまり割の良い仕事ではなく、それゆえ国選弁護人の確保も苦労するのだと思います。

少々込み入った調査や資料作成のために専門家の力を借りなければならなくなった場合、国選弁護人の報酬のなかで遣り繰りするということはないでしょう。常識的に考えて殆どの必要経費は被告人持ちということになるでしょうから、素人である裁判員にも解りやすくするためによりカネのかかる証拠物件を提出する必要が生じてくれば、経済的弱者をより不利な状況に追い込みかねません。

今般初めて実施された裁判員裁判で致命傷の状態を示したCGが検察から提示されたのは前回ご紹介した通りで、その元データの使用料280万円は依頼を受けた東大の学生が自腹で負担するという、一般的な社会通念では絶対にあり得ないようなカタチで処理されました。こうした非常識がまかり通り、被告人にとって不公平な状況が生じてしまうのはゆゆしきことです。

今回は被告人が犯行を認めていましたから、この高価なCGが決定的なポイントになったとはいえません。が、もし被告人が無罪を主張し、告発されたのは誤りである可能性も拭えない裁判で今回同様に不公平な証拠の提出が成されれば、冤罪を生みやすい危険な方向へ進んでしまう恐れがあります。

驚くべきことに、こうした状態を問題視するメディアはほぼ皆無でした。日本の裁判員制度は欧米の参審・陪審制と真逆に「被告人の利益」などロクに考えていないということに殆どのメディアは気付いていないようです(というより、「被告人の利益」という概念そのものを持ち合わせていないのかも知れませんが)。

もし、今後も検察側から大変な費用がかかるCGなどでの説明が成されるようであれば、被告人も同様に高額の費用を負担して対抗しなければ見劣りしてしまう恐れがあります。裁判員が関わらない従来の裁判でも国選弁護人しか付けられない被告人が不利になりがちだったのは同じかも知れません。が、それでもこうしたビジネスプレゼンのごときカネのかかる資料の提示など行われてこなかったわけで、ここまで大きな差が生じる恐れはなかったハズです。

また、人やカネが乏しくても検察の示した証拠を崩すために時間をかけて地道な調査を重ね、公判に備えれば、何とか対抗できるケースもあると思います。が、今回のように連日の集中審理で短期決戦となれば、そうした対応が困難になる恐れも充分に考えられます。カネに物をいわせて人海戦術をとれるか否か、被告人の経済力次第で状況が有利になったり不利になったりする恐れは今後ますます高まるかも知れません。

少なくとも、時間が限られ、弁論のチャンスが減るほど、より高度なスキルや相応の熟練が求められることになるのは間違いないでしょう。検察は場数を踏めますから、専門の人材を育成することも難しくないと思います。が、国選弁護人などは本業の傍らでやるような仕事ですから、こうした点で見ても経済的弱者がより不利な状況に追い込まれていく可能性が懸念されます。

従来は多少専門的な内容でも裁判官に正しく伝わりさえすればよかった証拠資料も素人の裁判員に解りやすくしなければ不利になりかねず、実質的に公判期日も弁論の機会も削られることでスキルの高い専門的な弁護人を雇えれば有利になるかも知れないというのが現状です。これでは「この世の沙汰もカネ次第」ということになってしまいかねません。

現に、アメリカの陪審員裁判でもそうした点が度々問題になっています。アチラは国民の負担軽減を理由として事前に密室で談合して争点を絞ったり、公判期日を短縮してしまったり、多数決でとっとと評決を下してしまうなど日本の裁判員裁判ように粗雑なものではありませんが、それでも被告人の経済力次第で状況が大きく違ってくることが問題視されているのです。

所得格差についてあれだけ大騒ぎして「格差是正」を声高に叫んできた日本のメディアは、何故こうした格差によって結果にも相応の違いが生じかねない司法制度改悪を放置していられるのでしょうか?

確かに、解りにくい裁判より解りやすい裁判であるに越したことはありません。が、「解りやすさ」という部分を求めたせいでマンパワーや資金力が潤沢であるほうが有利となるようでは問題です。解りにくい部分があればそれを説明する専門家を設置するなど対処の仕方はいくらでもあると思いますし、メディアもそれを報じる際に解りにくい部分を個別にフォローすれば良いわけで、「公平さ」より「解りやすさ」のほうが優先される裁判などあってはならないことです。

もし、解りやすさが重要な課題で、裁判員制度の導入がその課題の解決に有効だったとするなら、民事裁判に裁判員制度が導入されなかったのは何故なのかを徹底的に糾弾しなければなりません。

現在、原爆症の認定を巡って国を相手取った民事裁判が全国で100件近く起こされています。個別の刑事事件などよりこうした国の制度に絡む民事裁判こそ「自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。」という裁判員制度導入の理念に見合うものです。こうした裁判こそ国民に解りやすい法定内でのやりとりが求められ、裁判そのものにも「国民の視点や感覚」が生かされてしかるべきです。

しかし、日本の裁判員制度は刑事裁判でも特に殺人事件をはじめとした凶悪犯罪を中心に扱うのみで、民事裁判には適用されません。こうした矛盾を全てスルーして、守秘義務が厳し過ぎるの何のと、あまり重要とは言い難い部分に注文を付けているのは、要するに制度の中身を理解していないのか、理解しながら長いものに巻かれているだけなのか、いずれにしてもジャーナリズムとして終わっています。

(つづく)

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