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裁判員制度の本当の問題点は何故看過されるのか (その5)

アメリカの陪審員制度は一般市民がある日突然裁判所から呼び出され、特別な理由なしに辞退が認められないという点が日本の裁判員制度とよく似ています。が、アメリカの陪審員は精神的負担がより重くなりがちな量刑判断は求められません。フランスやドイツの参審員は日本と同じように量刑判断も求められますが、協会などの推薦によって選ばれるため、ある日突然強制参加させられるという訳ではありません。

日本の裁判員制度は「国民の負担を軽減する」ということが盛んに唱えられている割に負担が大きく、欧米の「悪いとこ取り」と言うべき仕組みになっています。日本の制度で「国民の負担を軽減する」という建前は「裁判が粗雑なものになっても構わないから速やかにこれを終わらせる」というところへほぼ直結しており、本当のところは国民の負担を軽減する気などないのでしょう。

前回ご紹介したように、アメリカの陪審員制度は陪審員の判断を尊重するため、陪審員によって下された評決はよほどのことがない限り覆らず、原則として上訴も認められません。が、陪審員裁判を望むか否かの選択権は被告人にあります。フランスやドイツなどの参審制では上訴が認められていますが、上訴審にも参審員を参加させることができるため、制度の意義が保たれています。

日本の場合、二審以上に裁判員を参加させない制度になっていることから、原則として一審の判決は破棄されないという方針が示されており、これはアメリカ式に近いものといえます。が、裁判員裁判とするか否かの選択権は裁判所が握っており、被告人にとってもこの制度は「悪いとこ取り」になっていると言わざるを得ません。

欧米の参審制と陪審制はそれぞれに異なる考え方で制度設計が成されていますが、それぞれある程度のバランスは保たれていると思います。しかし、日本の裁判員制度は参加させられる国民にとっても実際に裁かれる被告人にとっても不都合だらけで、こうしたバランスがことごとく無視されているように思います。唯一、裁判所にとって好都合な制度になっているという点で官僚主導のいつものパターンにハマっており、一方的で矛盾だらけの制度設計が成されているというのが個人的な印象です。

矛盾だらけの制度設計といえば、そもそも裁判員制度それ自体が憲法に反すると指摘している人がおり、私もその指摘は正鵠を射ていると思います。日本国憲法の第6章では「司法」について述べられていますが、その内容を見ますと国民の司法参加を全く想定していないことが解ります。国民を裁判に参加させ、裁判官の考え方に影響を与えること自体が日本では憲法違反に当たる可能性があるんですね。それは下記に示す憲法第76条の3項に反すると考えられるからです。

すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。


日本国憲法では、裁判官を拘束するものは憲法や法律のみであって、その職権は独立したものであるとされています。つまり、裁判員が裁判官に意見し、それを裁判官に聞き入れさせるのは憲法の定めに反すると考えられるわけです。仮に、裁判員を「裁判官」と同じであると見なすよう拡大解釈しても、下記に示す憲法第80条で規定されている裁判官の任命や任期に係る内容は裁判員のそれに当たりませんから、憲法との矛盾は解消されないでしょう。

下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。


要するに、マトモな法解釈でいけば矛盾なく裁判員制度を設けるには憲法の改正が不可欠だと考えるべきです。それが成されずに法制化されたこの裁判員制度は存在そのものに矛盾を抱えていると見られるわけです。この制度に反対する人たちの間ではこうした指摘が以前から成されていたにも関わらず、その声を大衆メディアが取り上げることはまずありません。このように根源的な問題を棚に上げて守秘義務が厳しすぎるの何のと騒いでいるのですから笑止千万です。

繰り返しになりますが、周防正行監督の『それでもボクはやってない』の冒頭で示される「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という格言にあるように、刑事裁判で最も大事なことは「無実の被告人に有罪判決を下してはならない」ということです。欧米の参審制・陪審制もこの大原則を第一義としています。刑事裁判において「被告人の利益」は必ず守られ、公平さが常に確保されなければなりません。有名な「疑わしきは被告人の利益に」という格言もここに根ざすものです。

しかし、日本の裁判員制度はこうした被告人の利益や公平さの確保よりも裁判員として強制参加させられる国民の負担を軽減することだったり、公判の内容が解りやすくなることだったり、裁判を身近にすることなどが優先され、裁判員制度の意義を失わせないために控訴審でも原則として一審判決は破棄されないという方向で考えられているという、とんでもない本末転倒状態になっています。

刑事裁判は誰のためのものかといえば、それは裁かれる被告人のためのものです。もちろん、法秩序を維持するためでもありますが、それは巨視的なハナシであって、個々の刑事裁判で最も尊重されなければならないのは誰が何と言おうと「被告人の利益」です。

「被告人の利益」を無視して良いというのなら、はじめから刑事裁判などという手続きを踏まずに刑務所へぶち込むなり、死刑に処すなり、何でもありということになってしまいます。それでは人権が守れないから刑事裁判を行うわけで、「刑事裁判を行う」ということは「被告人の利益を守る」「人権を尊重する」ということと同義です。

しかし、日本の裁判員制度はとてもそうしたことを慎重に考えているように見えません。こんな滅茶苦茶な制度で国民を司法に参加させ、欧米先進国並みになったと喜んでいるようでは諸外国から嘲笑を買うだけです。

大衆メディアはこのインチキな裁判員制度について極めて軽薄に賛意を示してきましたが、その理由は法務省などの宣伝文句の受け売りに過ぎません。数多の問題点が累々と積み重なっている状況に全く気付いていなかったり毎日新聞のように気付いても遅きに失していたりするのは、つまり裁判員制度が検討され始めた頃からずっと真面目に向き合う気がなく、その内容をメディア自身が精査してこなかった動かぬ証拠です。

「刑事裁判は裁かれる被告人のためのものである」という大原則を念頭に、皆さんももう一度日本の裁判員制度の内容を見直してみてください。そうすればこの制度が如何に矛盾に満ち、それを殆どのメディアが看過しているという現状がご理解頂けると思います。

(おしまい)

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