F2の跡を継いだF3000は、F1に上がり損ねたドライバーが次のチャンスを窺うカテゴリーのようになっている昨今ですが、かつてのF2は目の前にF1という最高のステージが待っている分だけ、若い選手の熱い走りが見られる面白いカテゴリーだったと思います。
1980年代初頭、ホンダがそのF2にV6エンジンを供給し、それまでディファクトスタンダードだったBMWの直4は常に後塵を拝すかたちになりました。全日本F2選手権も同様で、ホンダと懇意だった中嶋悟は1984年から3連覇を果たし、1987年からホンダの肝いりでF1へステップアップ、ロータスのセカンドドライバーとして日本人初のフルエントリーにこぎ着けました。
1986年は中嶋が日本国内で活動する最後の年でした。と同時に、全日本F2選手権も最後の年でしたから、ホンダV6・2リッターエンジンにとっても最後の年でした。また、富士スピードウェイも筆頭株主だった三菱地所がテーマパーク建設のためにサーキットを閉鎖する旨パブリシティし、反対運動が加熱していた時分でもありました。
もしかしたら富士スピードウェイも間もなく失われるかも知れないという雰囲気もあり、私は友人を誘って富士スピードウェイへ最後の全日本F2選手権を見に行きました。まだ高校2年生でしたから自動車の運転免許もなく、高速バスに乗って、安くあげるためにパドックパスも諦めました。ま、高校生の小遣いですから、こんなものでしょう。
でも、前座のレースに参戦していたRE雨宮の雨宮さんがパドックの外で談笑していたところに遭遇し、写真を撮らせてもらったりして、メインイベント以外にも非常に良い思い出が沢山出来ました。モタモタしていたお陰で帰りのシャトルバスに乗り遅れ、高速バスの停留所までの足を見つけるのにはかなり苦労しましたけど。

March 86J Honda
このとき、中嶋がドライブしていたマーチ86Jホンダに搭載されていたRA266Eという最強のF2エンジンはレヴリミットが11,000rpm程で、最高出力は330psを超えていたそうです。が、相応にデリケートで、ドライバーがレヴリミットを少しでも超過させてしまうと、メカニックにこっぴどく叱られたといいます。
余談になりますが、ホンダの第2期F1活動の当初は、このF2用のエンジンがベースになっていました。クランクを替えてストロークを短縮、総排気量を1.5リッターに減らしてターボで過給していたんですね。こうしたパターンはBMWもルノーもハートもやっていた当時の常套手段だったんです。
かつて、若かりし頃の私が憧れていたのはフェラーリでもなくポルシェでもなく、ホンダのレーシングエンジンでした。殊に第2期F1活動につながるF2エンジンは私を大いに魅了しました。中学時代に田宮模型から「ホンダF2」の名で発売されていたRCカーのキット(ボディに断りはありませんでしたがラルトがモチーフだったと思います)を組んで走らせていたことも、それに対する思い入れにつながっていたでしょう。
ホンダというブランド、そしてそのエンジンは私がもっとも多感な時代の憧憬が詰まっています。S2000のエンジンは、同じ2リッターエンジンとして最強の名をほしいままにしたそれよりシリンダの数が2つ少なく、レヴリミットは2000rpmほど低く、最高出力も公称で80ps(正味は100psくらい?)低いエンジンでしたが、私にとっては特別な存在だったわけです。
(つづく)