酒と蘊蓄の日々

The Days of Wine and Knowledges

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

本当は凄い即身仏

100歳以上の高齢者で所在不明が多数あったという問題ですが、8月14日までに全国で281人になったそうですね。こうした確認調査が行われるようになった発端ともいうべき東京都足立区のケース、約30年前に自室に閉じこもってミイラ化していた男性の事件が報道されたとき、私は仏教に対する等閑な扱いに少々驚きました。いえ、私も仏教との付き合いは深くなく、仏事などでそのしきたりに従うくらいですが、それでもかなり気になりましたね。

この事件について、遺体で見つかった男性の家族は「約30年前に “ミイラになりたい” “即身成仏したい” と言って自室に閉じこもった」との旨を証言していたようですが、私が見聞きした範囲では全てのメディアがその証言に違和感を感じている様子もなく、ストレートに伝えていました。が、この場合「即身成仏」というのは全くの誤りで、「即身仏」とすべきです。そうした修正をするなり注釈を加えるなりして報じるべきだったと思います。

念のために両者の違いを説明しておきますが、「即身成仏」というのは現世の肉体のまま、つまり生きたまま悟りを開いて仏になることをいいます。ゴータマ・シッダールタのように生身の人間が仏になることを指すわけですね。一方、「即身仏」はしかるべき準備をした後、瞑想や読経したまま絶命し、ミイラ化した遺体のことです。「成」という一文字の有無で全く違う意味になるわけですね。

生きたままでなければ「即身成仏」とはいいません。この男性が「即身成仏」を目指していながら途中でうっかり死んでしまったという状況だったのならともかく、「ミイラになりたい」と言って水や食べ物を持たずに自室に閉じこもったそうですから、彼がなりたかったのはどう考えても「即身成仏」ではなく「即身仏」です。

この男性の家族が証言していた段階で既に「即身成仏」となっていたようですが、亡くなってミイラ化した男性自身がそのように言っていたのか、家族が聞き間違っていたのか、勘違いが始まったのはこのいずれかだろうと思います。が、メディアがそうした誤りを誤ったままストレートに伝えるのもどうかと思います。

近年、テレビの報道番組などでインタビューの映像が流されるとき、その内容を掻い摘んだ字幕が付されるというパターンが非常に多くなりました。このとき、明らかに誤りであると解るケースでは修正が入るものです。特にNHKなどはご丁寧に「ら抜き言葉」まで正すことがあるくらいなのですから、本件のように解りやすい誤解を放置すべきではないでしょう。

こうした勘違いがそのまま報じられてしまったのは、要するに殆どの記者が「即身成仏」と「即身仏」の違いを認識していないからでしょう。ま、当の亡くなった男性も即身仏になるための正しい手順を認識していた様子はなく、信仰の厚い仏教徒が本気で即身仏になろうとしていたような状況でなかったのは間違いありません。そもそも、即身仏になるのは仏教のあらゆる修行の中でも最も過酷とされ、生半可なことでは成し遂げられません。

ご存じのように遺体を腐らせないように保存しておくミイラ化の風習は世界各地にあり、つとに有名なのは古代エジプトのそれですが、世界中を見渡しても日本の即身仏は異例尽くめといえます。普通、ミイラ化による遺体の保存は腐りやすい脳や内蔵を取り除き、全身を防腐処理します。つまり、遺体が腐らないように処置するのは死んでから別人の手によるわけです。

ところが、日本の即身仏は内蔵を取り除きませんし、それ以前に腐敗させないままミイラ化することに関しては他人の手を一切借りません。それを志した行者が亡くなってから数年間、誰もその遺体には触れないまま、腐敗せずにミイラ化してしまうのです。それは行者が生前に全ての準備を済ませておくからですが、その準備は大変な苦行だといいます。

エジプトのように国土の大半が砂漠でかなり乾燥した風土でも内臓(特に多数の細菌が棲み着いている腸)は腐りやすく、ミイラにするためには取り除いてしまうのですが、日本のように湿度が高い土地で内臓を残したまま誰の手も借りずにその腐敗を防ぐというのは至難の業です。どうしたらそのようなことが可能なのでしょうか? 折角ですので、ちゃんとした即身仏のなり方をザッとご紹介しておきましょうか。

即身仏になるには、兎にも角にも死後に肉体が腐敗しないよう、何年もかけて入念な準備をしておかなければなりません。まずは最初のステップとして「五穀断ち」を行います。カロリーの高い穀物を摂らず、木の実などの粗食に耐え、山野を駆けるなどして脂肪を徹底的に削ぎ落としていきます。一説によればこの苦行を1000日続けてから次のステップである「木食(もくじき)行」へ移行するといいます。

「木食行」というのは字のごとく樹皮や葉、根など、木を食べるというものです。これも腐りやすい肉体の組織を極限まで減らしていくのが目的ですが、同時に渋かったり苦かったりするこれらを食すのは精神的な苦痛にもなります。その苦痛こそが精神を鍛錬することになり、仏に近づく修行になると考えられていたようです。

また、木食に用いられた樹皮や葉や根などには漢方薬となるものもあったようで、過酷なエネルギー摂取量の制限にも衰弱してしまわないよう、経験的にその薬効を活用していたと考えられています。つまり、途中で死んでしまってもダメということです。こうした修行、すなわち即身仏になるための準備は最長で10年にも及んでいたそうです。

もちろん、全ての段取りが完全に同じというわけでもなく、時代によっても地方によっても個々の行者によっても微妙に異なるやり方をしていたと思います。死後も肉体を腐敗させずにミイラ化させ、即身仏となるその成功率は決して高くなかったようで、数多の失敗を重ね、その経験から技を洗練させていったと考えるべきでしょう。

最も盛んだったのは山形県の庄内地方だったようです。日本には18体の即身仏が現存するそうですが、そのうち8体が山形県にあり、4体が鶴岡市にあります。ここで即身仏に挑んだ行者たちは、湯殿山に涌く湯やその堆積物を飲んでいたと考えられています。これにはヒ素が含まれており、その毒が次第に蓄積されて防腐剤として機能し、成功率を高めていたようです。

最後は土中に石や木などで作られた室に入りますが、その直前に漆の樹液を飲むといいます。汗をかき、嘔吐を繰り返し、最後まで身体に残された水分を絞り出したというわけですね。漆の樹液には細菌や蛆などの繁殖を抑える効果もあるそうで、これもまた防腐剤として機能していたと見られます。こうした段取りを踏んで土中の室に入ると、蓋をされ、埋められ、鈴を鳴らしながら読経するなどして死を待ちます。

その際に呼吸を維持できるよう、また鈴の音が外へ聞こえるよう、竹筒などで通気孔が設けられています。何日かして絶命すれば鈴の音が止みますから、周囲にそれを知らせることができます。鈴の音が止むと、通気孔が塞がれ、やはり1000日が経過してから掘り起こされます。腐敗することなくミイラ化し、無事に即身仏になることができたら寺で仏像のように祀られます。

人の手を借りるのは土中に石室や木室などを設えたり、そこに入った後に蓋をして埋めてもらったり、絶命した後に通気孔を塞いでもらったり、約3年後に掘り起こしてもらうといった段取りくらいで、死んでから肉体が腐らないようにする手立ては全て本人が生前に済ませておくというわけです。

極限まで身体から脂肪や筋肉や水分を削り取っていき、ヒ素や漆など人体に有害なものをも利用して死後の肉体が腐敗するのを防ぐわけで、タイミングや程度を誤ればその時点で命を落とすというリスクがつきまとっています。準備の段階で断念したり命を落とした行者も少なくなかったようですし、全てを完璧にこなしても成功するとは限らなかったようです。

これだけ長期に渡って過酷な苦行を成し遂げるのですから、仏として祀られ、人々に信仰の対象とされてきたのは理解できます。また、即身仏になろうと志す行者が絶えなかったのは、現世の人々に及ぼす影響だけではなく、その先の未来に希望を持っていたからだと考えられています。

即身仏になる重要な目的の一つには未来での復活を期すというものがあります。釈迦入滅から56億7000万年後に降臨して世の民をもれなく救済するという誓いを立てている弥勒菩薩に接見するため、即身仏となって未来にその肉体を残すという考えです。古今東西を問わず、肉体を保存しようという動機として非常に多いパターンが未来での復活を望むもので、エジプトのミイラやアメリカのアルコア延命財団の冷凍保存なども発想は同じです。

明治以降、即身仏になることは法律で禁じられ、現在でも土中に埋めるなどの段取りを手伝う行為が自殺幇助と見なされるため、正しい手順で即身仏になることは法に触れる行為を伴います。が、信仰としてその手前の段階、「五穀断ち」や「木食行」などについては現在でもある程度まで経験する人がいるといいます。

件の足立区の男性の場合、こうした段取りを踏んでいる様子は全くなく、単に自室に閉じこもっただけで、「10日後には異臭がした」とか「一部白骨化していた」などと伝えられており、全身ではないにしても腐敗していた様子が窺えます。即身仏の何たるかを知らずにただ部屋に引きこもって飲まず食わずで餓死しただけと見るべきでしょう。これでは即身仏になれたとはいえません。

この事件の後、ネットでも色々話題になっていたようですが、本当の即身仏もただ引きこもって餓死しただけと認識し、この男性と同列に考えている人が少なくありませんでした。即身仏になるためにどれだけ過酷な苦行を乗り越えていく必要があるのか、そもそも即身仏とは何なのか、根本的な部分を理解していない人が沢山いるようです。ま、一般の人で特に興味がなければ無理からぬことではありますが。

かく言う私も即身仏に対して特段の興味があったわけではありません。こうした知識を得たのはアメリカのディスカバリーチャンネルというドキュメンタリー番組専門局で何年か前に放送された『日本のミイラ―即身仏の科学』という番組をたまたま見て、思ったより興味深い内容だったので再放送を録画しておいたというだけです。

ただ、アメリカの番組がここまで日本の風習を深く堀り下げていながら、日本のメディアは「即身仏」と「即身成仏」の区別も付けようとしないのですから、これは少々恥ずかしい状態だと思います。

コメント

興味深いお話をありがとうございます。
私も、「即身成仏」と「即身仏」があるのは知っていましたが、ここまで別物だという認識がありませんでしたし、「高温多湿な日本の気候で、どうやってミイラになるんだろう?」という疑問をほったらかしにしていただけに、いい勉強になりました。
確かに、Wikipediaでも両者が全く別物であることが指摘されていますね。

私もたまにディスカバリーチャンネルを見ますが、日本にはこのような教養番組が極めて少ないですね。
総合放送局では、教育番組、教養番組をそれぞれ、10%以上、20%以上放送しなければならないところ、例えば、テレ朝では「TVタックル」さえも教養番組に分類しているとのことで、かなり深刻な事態だと思っています。日本のメディアに質の高い番組制作を求めるのが厳しい状況にあることは、極めて残念なことです。

  • 2010/08/23(月) 23:11:40 |
  • URL |
  • わちゃちゃ #JOOJeKY6
  • [ 編集]

拝読しました

はじめまして。
盆休みに那智勝浦に旅行した際に「補陀落渡海」に興味を持ち、検索でたどりつきました。
私も「即身仏」と「即身成仏」の違いについていまいち理解できていなかったクチですが、石墨様の記述が一番分かりやすく、しかもメディアに対する批判までされており、おそれいりました。

同じくマスコミへの不信感を抱いているものとして、これからも読ませていただきます。ありがとうございました。

  • 2010/08/24(火) 11:27:38 |
  • URL |
  • よっちら #rDam4O6o
  • [ 編集]

わちゃちゃさん>

私も教養番組の質の低下には懸念を感じています。

例えば、終戦の日にテレビ東京が珍しく戦争を取り上げた『池上彰の戦争を考えるSP ~戦争はなぜ始まり どう終わるのか~』という番組を放送していました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegami_wars10/

が、太平洋戦争の終戦から65年も経過して体験者が減っており、当時子供だった人も(私の父もその一人ですが)高齢者となっており、生々しい体験談が得にくくなっています。そのせいなのか、ユーゴスラビア紛争も取り混ぜ、その体験者に戦争の様子を語らせていました。ま、番組のタイトルからして太平洋戦争だけを振り返るものでもなく、「戦争を考える」という主旨には見合う構成なのかも知れませんが、内容的には散漫になってしまった印象が否めません。

また、サイパン島で多くの日本人が身投げしたいわゆる「バンザイクリフ」から民間人の女性が飛び降りる映像など、太平洋戦争のドキュメントでサイパン島陥落を纏める際には必ず使われる超定番の映像で、私としては見飽きていたほどです(表現が良くないのは承知していますが、それくらい何度も見ているということです)。が、この番組で「あんな映像が残っていたんですね」みたいなコメントが発せられていたのには驚きました。

NHKなどではいまでも映像とナレーションで淡々と綴るドキュメンタリー番組が放送され、この夏にも『ホロコーストを生きのびて~シンドラーとユダヤ人 真実の物語~』など第二次世界大戦に関する見所のある番組が多数放送されました。
http://www.nhk.or.jp/war-peace/summer/onair03.html

NHKの報道番組もご多分に漏れず偏向していますし、『プロジェクトX~挑戦者たち~』のように演出が過ぎるドキュメンタリー番組も個人的にはあまり好ましく思っていませんでした。が、シンプルな構成のオーソドックスなドキュメンタリー番組に関してはいまでも時々良質なものを制作していますから、彼らもなかなか侮れません。

一方、民放はこのように地味な番組では視聴率が伸びないと考えているのか、件のテレビ東京の番組も情報バラエティ番組のようにタレントをひな壇に座らせてVTRの合間にコメントさせるような構成になっていました。その分だけ肝心な情報は削られ、上述のように「あんな映像が残っていたんですね」みたいな他愛のないタレントのコメント(制作サイドとしてはそれが「視聴者目線」と言いたいのかも知れませんが)に時間を浪費する無駄の多さが個人的にはかなり鬱陶しく感じました。

とはいえ、民放はスポンサーが付かなければ番組は作れませんから、どうしても食い付きの良さを求めがちです。結果、このような構成になってしまうのかも知れません。つまり、番組を制作する局だけの問題ではなく、視聴者の嗜好にも問題があると見るべきかも知れませんね。




よっちらさん>

初めまして。

本文でも触れましたように、現代において即身仏になることは違法性を帯びますから、風習としては完全に廃れてしまいましたし、普通の人が詳しく知らないのも仕方ないことだと思います。私もたまたま見た番組でその奥深さを知っただけですから、あまり偉そうなことを言える立場でもないのですが、メディアには一般人よりも豊富な知識があってしかるべきで、物事を見極める見識の高さを望みたいところですね。

思えば、堀江氏率いるライブドアがフジテレビを呑み込もうと企てていたとき、彼は「ニュースの重み付けもネットでのアクセス数を反映したもののほうが民主的で偏りが少ない」みたいなことを言っていました。それに対して報道関係者達は烈火のごとく怒り、「世の中には埋もれさせてはいけないニュースがあり、それを世に知らしめるのがジャーナリズムの使命だ」とか「高い知識と見識で情報の価値を見定めるのがジャーナリストの仕事だ」みたいな反論をしていました。

確かに、こうした報道関係者達の言い分のほうが正論だと思います。価値判断が成されないまま興味本位だけで情報の扱い方の大小が決まってしまうような構造にしてしまうと、メディアはデマを垂れ流しにする集団に成り下がってしまう恐れがありますから。

しかしながら、実際にはそうした「情報の目利き」として機能していないことが非常に多く、むしろ大衆をミスリードしてしまうような偏向報道も数多くなされています。私はあのときジャーナリズムの何たるかを得々と開陳していた人達に「オマエ達にそんな偉そうな台詞が吐けるのか?」と冷笑したものです。

プロフィールにも書いていますが、私のメディア批判は趣味みたいなところもあって、読み返してみると我ながら「クドイな」と思ってしまうこともありますが、今後もお付き合い頂ければ幸いです。

  • 2010/08/31(火) 00:17:25 |
  • URL |
  • 石墨 #PxDbU/1w
  • [ 編集]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2012/07/04(水) 09:04:24 |
  • |
  • #
  • [ 編集]

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

  • 2014/05/04(日) 11:01:35 |
  • |
  • #
  • [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://ishizumi01.blog28.fc2.com/tb.php/592-41ac9eb3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

まとめ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。