酒と蘊蓄の日々

The Days of Wine and Knowledges

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明けましておめでとうございます

ご無沙汰しております。1年前は年末年始を挟んで1週間ほど放置しましたが、今年は1ヶ月以上も空いてしまいましたね。それでも毎日200人前後の方がアクセスして下さって申し訳ない感じです。

先月はたまたま大きな仕事が二つ重なってしまったこともあり(両方合わせて10億円を超えるウチとしてはなかなかの大商いでしたので、ミスった場合の影響も小さくありません)、近年にない忙しさで休日出勤も数回ありしました。今月もその残務が少々あるうえ、北海道と大阪への出張が入ってしまうなど、やはり多忙になりそうです。その分だけ来月以降は暇になりそうですが、当blogの更新頻度が上がるかどうかは微妙です。

さて、新年早々失笑してしまったのが朝日新聞の1月1日付社説です。先のエントリで褒めたのに何ですが、特に書き出しが可笑しかったので私にとってはこれが今年の初笑いになりました。

今年こそ改革を―与野党の妥協しかない

 なんとも気の重い年明けである。

 民主党が歴史的な政権交代を成し遂げてから、わずか1年4カ月。政治がこんな混迷に陥るとは、いったいだれが想像しただろうか。

 長い経済不振のなかで、少子高齢化と財政危機が進む。先進国の苦境を尻目に新興国は成長軌道へ戻り、日本周辺の安全保障環境が変化しだした。政治はこれらの難問に真剣に取り組むどころか、党利党略に堕している。そんなやりきれなさが社会を覆っている。

(後略)


私は民主党が政権を得た総選挙の直後、当blogで以下のように書いていました。

圧勝した民主党のマニフェストを見ても根拠を逸した理想論だったり、CO2排出削減と高速道路の無料化のように相容れない政策が並んでいたり、マトモな理解力がある人間が見ればこんないい加減で出鱈目な政策を掲げるような程度の低い政党を勝たせようとは思わないでしょう。

が、自公連立政権もまたそれに劣らぬ出鱈目ぶりで国政を担ってきましたから、むかし流行った「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか」みたいな究極の選択を迫られた選挙だったといえるでしょう。そこで長年ぬるま湯に浸かってきた彼らにお灸を据えてやろうという空気になったようにも見えます。

中には民主党に期待する人もいるようですが、あの出鱈目なマニフェストを見る限り、それが裏切られるのはほぼ間違いないと思います。

(全文はコチラ)


私みたいな片手間でblogを書き、忙しさにかまけて1ヶ月も放置してしまうような人間でも見越せたことを朝日新聞という日本屈指の大新聞の論説委員が「いったいだれが想像しただろうか 」というのですから、これはもう笑うしかありません。あの支離滅裂なマニフェストもそうですが、昨今のドタバタで党内の意見すら纏めることもできない政党に日本の政治の舵取りを担わせることにそもそも無理があるのです。

その意見統一ができていない無様な状況は過去にも何度か繰り返されてきましたが、その度に枝野前幹事長は「オープンに議論しているだけであって、自民党政権時代のように密室でハナシを進めてしまうようなことをしていないだけ」というような旨を繰り返し述べ、国民を小莫迦にするような詭弁を許してきたような政党です。彼らには常識そのものが欠落していると見るべきかも知れません。

いまにして思えば、あの総選挙前に自民党がネットで流したアニメCMは正鵠を射貫いていたと断言できます。まだYouTubeに残っていますので、以下に貼っておきますが、朝日新聞の論説委員はこれらの動画を見ておくべきでした。ま、大新聞の論説委員は救いようのないネットオンチ揃いですから、こうしたネガティブキャンペーンがネット上で展開されていたことも知らなかったのでしょう。







私は決して自民党を支持しているわけでもありませんし、こうしたCMで相手の足を引っ張る手法も個人的には好みません。が、あの選挙のとき「政権交代さえ実現できれば現状よりはきっとマシになる」という根拠のない期待感を煽り、民主党の政策能力と決断能力の低さを全く見越していなかった多くのメディアは、これらのCMが明快に指摘している点を冷静に抑えておくべきでした。

一方、これも朝日新聞に限ったことではありませんが、人口減少は避けなければならない危機であるといった論調も相変わらずで、やはり失笑を禁じ得ません。

 日本の人口は2005年から減少傾向に転じた。現役世代に限ると、減少はすでに1990年代の半ばから始まっていた。この働き消費し納税する現役世代が減り始めたことが、日本経済の長期低迷の根底にある。

 代わって急増するのが引退世代。現在は現役3人弱で引退世代1人を支えているが、20年後には2人弱で1人を支える。そのとき、現役世代は1400万人以上も減っている――。

 人類の歴史で初めて体験する厳しい事態といっていい。

 現在の年金も健康保険も、制度の基本は高度成長の時代につくられた。団塊を先頭とする戦後世代が続々と働き手になる時代だった。それが、いまや低成長に変わって現役世代が減少し、その負担がどんどん増す。来年からは団塊が引退世代へ入り始める。

 正反対への変化を見つめれば、社会保障の仕組みを根本から立て直さないと維持できないことは明らかだ。


少ない人口が経済面で不利になるとは限りません。例えば、スウェーデンの人口は日本の1/14程度に過ぎず、神奈川県と同等です。それでいてボルボサーブといった自動車メーカー(ご存じのようにサーブは航空機メーカーでもあります)、ヨーロッパ2位の家電メーカーであるエレクトロラックス、中型一眼レフカメラなどのプロ用写真器材で確固たる地位を築いているハッセルブラッドといった世界的企業を幾つも抱えています。2008年のGDP(MER)は4,850億ドルで世界19位、国民1人当たりのGDP(PPP)は37,245ドルで、日本のそれを約9%上回っています。

確かに、急激な人口減少は社会的な負担を高めることになるでしょう。が、人口が少なくなること自体は決して悲観することではありません。というより、資源の食いぶちを減らすためにも世界的に人口を減らしていくことのほうが望まれるべきで、日本のメディアはあれだけCO2削減を唱えてきたなら人口減少や若者のクルマ離れなどはむしろ大歓迎すべきです。

そもそも、「現在の年金も健康保険も、制度の基本は高度成長の時代につくられた」「いまや低成長に変わって現役世代が減少し、その負担がどんどん増す」というのであれば、高齢者を現役世代から退かせるタイミングを遅らせることを考えるべきです。高度成長期につくられた件の社会保障制度が「60歳で定年を迎えたら悠々自適の年金生活」という甘いライフスタイルをもたらしたわけですが、それ以前は「働ける間は働く」というのが普通でした。

私の父など今年で75歳になりますが、元気に現役で働き続けています。ま、それは自営業だからということもありますが、自営業をやっている人の間でこうしたケースは決して珍しくないでしょう。「60歳で定年を迎えたら悠々自適の年金生活」という50年くらい前につくられた理想が現状ではそぐわなくなり、幻想になってきたと見るべきなのです。

こうした幻想にいつまでもしがみつき、高齢者を支える世代を「産めよ増やせよ」と戦時中のようなスローガンで煽り、資源を消費する人口を増やそうとするなど愚の骨頂です。まして、「人類の歴史で初めて体験する厳しい事態」などと、人類の歴史を知らないにも程があります。

過去に崩壊した文明は幾つもありますが、自然災害によるもの以外はその殆どが人口増に耐えられなくなった状況で起こってきました。食糧生産やエネルギー供給が追いつかなかったり、あるいはそうした状況で資源を奪い合う戦争となったときに文明は崩壊したり、大きく後退したりしてきたのです。

以前にも述べましたが、人口を増やすことよりもできるだけ社会的負担が少なく済むような上手な人口の減らし方を本気で検討すべきです。その基本的な考え方としては、「60歳で定年を迎えたら悠々自適の年金生活」という半世紀前に創作された幻想を捨て、高齢者の雇用を支援する社会システムの構築を目指すといったところでしょうか。場合によっては法改正を行い、企業に対しても一定数の高齢者を雇用するよう義務づけるといった政策も必要かも知れません。

現役を続行できるのにその場が得られない高齢者の生活を若い世代に背負わせようとすること自体が現状では正解でなくなっていると私は考えています。高齢者が「悠々自適の年金生活」を送れるようにすることが保障の充実した理想の社会であるという考え方が現実とは決定的に乖離するようになってきたいま、根本から立て直すべきなのは「社会保障の仕組み」ではなく、「社会保障に多くを依存する高齢者の在り方」そのものではないかと思います。

年頭から朝日新聞を批判しましたが、こうした論調は多くのメディアに通じるものです。右寄りの産経新聞や読売新聞は以前から民主党批判を重ねていましたが、少子高齢化を悲観する論調は日本の殆ど全てのメディアに共通しているといっても過言ではないでしょう。人口増加とCO2削減(=化石燃料の消費削減)という相容れない要素を同時に望むのは、高速道路無料化とCO2削減を並べた民主党のマニフェストと何ら変わりません。

あの出鱈目なマニフェストを掲げた民主党が政権を担い「こんな混迷に陥るとは、いったいだれが想像しただろうか」と言っているくらいですから、自分たちの主張も大きな矛盾を抱えていることに気付けないのは宜なるかなといったところでしょうか。今年もこういう莫迦莫迦しいボタンの掛け違えに気付かないまま、彼らは大衆をミスリードし続けるのでしょう。

朝日新聞の社説にしては非常に良い突っ込みだね

例の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件が記録されたビデオ(以下、尖閣ビデオ)がYouTubeに投稿され、その後の報道を見ていて私はこう思いました。「このビデオ流出事件はスケープゴート的に利用されているのでは?」と。

いまから約1ヶ月前に警視庁からテロ関連情報が流出したと疑われる事件が起こっていたことは皆さんもまだご記憶だと思います。が、その直後の尖閣ビデオ流出事件によってテロ関連情報流出事件は完全に吹っ飛んでしまいました。メディアも尖閣ビデオばかりを執拗に報道し、テロ関連情報流出事件はわざとらしいくらいに触れられなくなってしまいました。

あれから1ヶ月以上経過した現在でも警視庁は非を認めておらず、ネット上に出回ってしまった情報が彼らの作成した内部資料であるかどうかも(内容からして彼らの内部資料であるのは間違いないのに)「調査中」として明確な態度を示していません。この問題はメディアも殆ど放置したまま徒に時間だけが過ぎてしまったといっても過言ではないでしょう。

尖閣ビデオが流出したことで迷惑を被ったのは捜査協力を要請されたYouTubeを運営するGoogleの日本法人が最たるものでしょう。海上保安庁の関係者や同庁を管轄する国土交通省の関係者、政府与党にも迷惑に感じた人はいるでしょうが、責任者が責任を問われたに過ぎません。衝突事件の加害者である中国サイドもかなり迷惑に感じたでしょうが、それも自業自得というものです。

このビデオは投稿者である海保職員が削除した後もニュース番組などで何度も何度も繰り返し流され続けました。そのことで政府からテレビ局へクレームが付いたというハナシも聞きません。つまり、映像そのものにはさして悪影響のある内容など含まれていないというのが殆どの日本人の認識でしょう。いまでもネット上にはコピーが出回ったままになっていますが、この状態を憂う人など(中国人以外)殆どいないでしょう。

しかし、同じ機密情報の漏洩事件でも警視庁から流出したに違いないテロ関連情報は個人情報が多く含まれており、そのことによって被害を受けている人も決して少なくないといいます。最悪なのは警視庁がいまだに責任を認めておらず、流出した情報に関して警視庁自身は放置しているという状況です。捜査は当然やっているのでしょうが、それだけでは無責任もいいところです。この情報がネット上に存在し続けることは憂うべき状況です。

尖閣ビデオを流出させた海保職員に対しては義侠的なイメージが持たれたり、好意を感じている人も少なくないようです(私個人の感想としましては、機密情報を漏洩させた行為そのものについては擁護に値しないと思います)が、テロ関係情報は誰がどう考えても善意として受け取れる要素などカケラもなく、どんな詭弁を弄しても正当化などできません。

尖閣ビデオの流出とテロ情報の流出とでは、どちらがより重い責任を帯びているか、どちらがより多くの善良な人に迷惑を及ぼしたか、火を見るよりも明らかです。なのに、多くの関心が前者に集中し、後者は忘れ去られようとしています。こんな出鱈目な状況は何らかの意思によって作られたか、日本人の価値判断能力が崩壊しているか、どちらかに断定できるでしょう。

いま、日本のメディアもWikileaksに流出したアメリカ政府の機密文書について盛んに報じており、かの国の情報管理に対する信頼がどうのこうのと論じられています。が、警視庁から流出したに違いないテロ関連情報の問題を棚に上げて何をか言わんやです。

などと思っていたら、朝日新聞の一昨日付の社説が非常に良い突っ込みをしていました。彼らにしては珍しい慧眼で書かれており、ちょっと感心してしまいました。なので、全文を転載します。

流出資料出版―警視庁はなぜ謝らない

 警視庁のものとみられるテロ捜査の書類が流出してから1カ月。いまも大量の電子ファイルがネット上を漂い、世界中の1万台を超えるパソコンにダウンロードされたという。

 その資料をそっくり印刷して書籍にした出版社に対し、東京地裁が、出版や販売を差し止める仮処分命令を出した。顔写真や交友関係といった個人情報をさらされたイスラム教徒らの申し立てを受けた判断だ。

 出版の自由や言論の自由は民主主義の根幹である。しかし、プライバシー権とのかねあいをどう図るかは、難しい。今回の資料はネット上で公開されてしまっており、出版だけ止めても意味がない、という意見もある。

 だが、中にはテロとかかわりがあるかのような記述をされた人もいる。普通の市民ならば、絶対にばらまかれたくない内容だ。それが書店の棚に並べば、ネットで探すより容易に手にとって見ることができる。

 出版によって、回復が著しく困難なほどの権利侵害が起きるとした今回の判断は妥当だろう。東京地裁は、仮に出版社が情報流出について問題を提起したのだとしても、「詳細な個人情報自体は公共の利益にかかわるとはいえない」と断じている。

 ネット時代に、出版社を含む既存メディアはどう向き合うべきか。

 ネット空間は今や権力が秘匿する情報を暴露し、告発する手段としても使われるようになった。折しも、ウィキリークスによる米外交文書の暴露が世界を揺るがせている。一方で、有害な情報がひとたび流れ出てしまうと完全に取り除くことは不可能だ。

 まず情報の真偽や価値を見極める。ついで公開によって社会が得る利益と被害を比べる。そして、報道に踏み切るか判断する。新聞や出版、放送など既存メディアの役割はなお重いと考えるべきだ。公益性の吟味をせずに情報を写すような今回のやり方は、責任を果たしているとはいえないだろう。

 警察はいまに至っても流出資料を本物と認めておらず、出版の動きに抗議することもできなかった。被害者をこれ以上不安に陥らせぬためにも、早く認めて謝罪するべきだ。

 申し立てをした人たちは、警察当局の対応に憤っている。警視庁は、携帯番号や家族構成まで暴露された捜査員については安全を守る手立てをとっているはずだ。その配慮を、民間の被害者にももっと尽くすべきである。

 流出経路の調査は難航している。警視庁公安部では、暗号化やデータ持ち出し防止策がないパソコンが使われていた実態も明らかになった。

 警察が守るべきは誰か、正すべきことは何か。失敗を認めた上で、ことに当たってほしい。それが、失った信頼を少しでも取り戻す道だ。

(C)朝日新聞 2010年12月1日


「書店の棚に並べば、ネットで探すより容易に手にとって見ることができる」という認識については大新聞の論説委員という古いメディア人にありがちな錯誤という気もしますが、大筋においては正鵠を射ているといえるでしょう。朝日新聞の社説にしては上出来だと思います。

テレビ通販を軸に急成長した「ジャパネットたかた」は、6年前に顧客情報を流出させてしまう不祥事を起こしました。この事態を重く受け止めた同社は1ヶ月半に渡って営業を自粛しましたが、その間の減収は150億円にものぼったといいます。

ま、警察は営業自粛などできませんから、反省の態度を示すにしても違ったやり方をする必要があるのは言うまでもありません。が、彼らは流出した情報が自分たちのものか否かすら1ヶ月経っても明らかにしていないのですから、どう考えても反省しているようには見えません。他のメディアも朝日新聞を見習って警視庁に対する批判をもっともっと高めているべきでした。

そうして警視庁を敵に回し、記者クラブとの関係にヒビが入ったとしても、そのときこそメディアスクラムでもって対抗すべきです。が、日本のメディアはメディアスクラムを弱い者イジメにしか用いない習性がありますので、彼らに期待しても無駄なのでしょう。しかも、警視庁の記者クラブは何故か3つもありますから、この一件でメディア同士が協調し合うということさえ望めないかも知れません。


(おまけ)

尖閣ビデオ流出のとき、新聞やニュースの字幕などに「ユーチューブ」と標記されていましたが、私にはかなり違和感がありました。ネットでは「YouTube」と標記されるのが常識で、個人レベルでは時々これをローマ字読みした「ようつべ」と書かれることもありますが、カタカナで「ユーチューブ」と書かれていたのを見たのはあのときが恐らく初めてだったと思います。

逆にいえば、新聞やテレビなどのレガシーメディアではネットの常識が通用しない壁みたいなものがあるのだなぁと思いましたね。

ネットだけが尖閣諸島を巡る国内のデモをマトモに伝えた

このところ仕事が忙しく更新頻度がかなり落ちているうえ、先のエントリは当初3~4回くらいの連載を予定していたのに色々詰め込んでしまって、いつの間にか8回にも及んでしまいました。私は連載の途中に別の話題のエントリを挟みたくないという主義のため、だいぶ旧聞になってしまいましたが、尖閣諸島を巡って中国を批判する大規模なデモが国内でもアチコチで行われましたね。

しかし、欧米のメディアでも伝えられた(CNNでもちゃんと扱われています)このニュースを、ご存じのように日本の主要メディアはほぼ全てスルーしてしまいました。一方的な情報しか伝えないことを「偏向報道」といいますが、それはジャーナリズムのやってはいけないことだと彼らは理解しているのでしょうか?

その一方で、TBSの『News23 X』などでは「中国の若者はなぜデモに参加するのでしょうか。JNNは参加者に直撃取材をして話を聞くことができました。そこから見えてきた建前と本音です。」などという特集をやっていました。日本経済新聞も10月27日付で『反日デモに映る中国の実像』という似たような社説を載せていましたが、日本で行われた反中デモをスルーしておきながら、こうした論評を展開するとは鼻白むとしか言いようがありません。

日経の社説など、「日本は今回の対立の後の外交で、内陸部の若者に親しみを感じてもらう交流拡大の措置を考える必要もあろう。」などと結んでいますが、そうした相互理解は双方の状況を公平に見つめ直してこそ可能なことです。中国の反日デモは大きく扱う一方で国内の反中デモは「無かったこと」にしておきながら、どう開き直ればこんな社説を書けるのか神経を疑ってしまいます。

ネット上ではこうしたメディアに対する批判が高まっていますが、当の彼らはどこ吹く風といったいつもの姿勢です。特にテレビ局は即時性という点でネットが脅威になり得ると自覚しているハズなのに、まだ自分たちとマトモな勝負ができるとは考えていないのかも知れません。度重なる偏向報道で私たちネットユーザーからは既に信頼を失っている彼らですが、その点に関する危機感が著しく希薄なのは哀れとしか言いようがありません。

音声と動く映像を同時に伝える情報密度の高さではテレビが群を抜く存在でしたが、いまやネットを使えば個人レベルでもそうした密度の高い情報を発信することは可能です。渋谷で行われたデモの様子もYouTubeなどに投稿され、その様子を子細に窺うことができます。



新聞や雑誌などは即時性という点でテレビやラジオには敵いませんから、より冷静で客観度を上げた報道が期待されるものですが、やはりこの一件はスルーしてしまいました。一方、Wikipediaの『2010年尖閣諸島抗議デモ』では渋谷以外にも名古屋や那覇、大阪、高松などでも数百~数千人規模のデモが確認されていることを纏めています。

かつて、故筑紫哲也氏は「インターネットは便所の落書き」と愚弄していましたが、ネットに流れている情報が「玉石混淆」であるということは殆どのユーザーが認識していることです。現実には新聞やテレビなど大手メディアが流している情報もネットと大差ない玉石混淆状態です。一方的な情報で固まらないという点ではネットのほうが遙かに健全といえるでしょう。

今回の一件を扱ったものの中で個人的に面白いと思ったのはYouTubeに投稿された↓この動画です。



タイトルが『【嘘字幕】ドイツのテレビが中国の尖閣侵略抗議・渋谷デモを【MAD】』となっているように、この動画そのものはフェイクです。ドイツの報道番組で全く関係のないニュースを伝えている画像に一連の「日本のメディアがスルーしたニュース」を伝える嘘の字幕を付し、それに関する映像を合成したものです。

が、ジョークなのはそこまでで、伝えられているニュースは全て本当に起こった事件です。どれも日本の大手メディアはスルーしたり軽くいなしたものばかりですが、そのような扱いにとどめるべきものでないことは誰の目にも明らかでしょう。

実は私もこの動画を見るまでその殆どの事件を知りませんでした。中国との関係がデリケートな状況である現在、中国人による凶悪事件を意図的に報道対象から外すことで、日本人の反中感情が高まらないようにコントロールしようという意図が明らかになってきますね。

メディア自身が空気を読んで足並みを揃えたのか、政府が何らかの指導をしているのか、いずれかになるでしょう。が、これだけ数が揃ってしまうともはや「報道協定」の域にとどまるものではなく、実質的に「報道管制」になっていると言わざるを得ないでしょう。

日本がまだマシなのはネットを注意深く見ていれば比較的容易にこうした情報が入手できる状態にあるところでしょうか。一般市民レベルでは殆どネットを利用できない北朝鮮や、ネットに関しても検閲を徹底させている中国に比べ、この点だけは日本のほうが「先進国らしい」といえるのかも知れません。が、逆にいえば旧来からのメディアは北朝鮮や中国と大差ないレベルにとどまっているということです。

私は地球温暖化問題などを通して同様のことを何度となく書いてきましたが、それは私が国内外を問わず積極的にその種の情報を得ようと努力してきたゆえに気付くことができたからです。恐らく私の興味が薄い分野でも似たようなことは日常的にかなりの頻度で繰り返され、イメージがコントロールされていると考えておいたほうが良いのかも知れません。

私は若いころ父や学校の先生など年長者によく「新聞を読め」と言われたものです。その理由として「新聞を読まないと世の中を知ることができない」などと異口同音に言われました。しかしながら、これまでの経験から私が理解したことは「新聞しか読まないと世の中を曲解する」ということです。メディアが伝えないことに世の中の真の姿があるというケースも決して少なくないでしょう。今回の偏向報道もそれを明らかにする好例になってしまいました。

塾の広告が勉強不足というのも・・・

私が通勤に使っている電車にも学習塾や予備校などの広告が色々掲示されています。日能研の広告はフジテレビの『平成教育委員会』に似た感じで中学の入試問題が出題されており、ついつい解いてみたくなってしまいますね。

一方、みすず学苑のあのシュールな広告になると私の感性では全く理解不能です。いつもヤマトタケルが大きく扱われてきたのは学苑長である半田晴久氏が神道系宗教団体ワールドメイトの教祖である深見東州氏と同一人物であるというところで繋がっていると考えれば理解できます。が、その画像に大量のプリンがちりばめられるようになったのは、彼らが合格者を「合格プリンス」「合格プリンセス」と呼んでいるところから短絡した駄洒落だそうで、私にはこのセンスがサッパリ理解できません。

ワールドメイトの各支部にも「ハトよりもワシよりもタカじゃい三鷹支部」とか「犬も歩けば銀座!人も歩けば銀座!カエルが飛んでも銀座!そうさ銀座は皆が行きたいところなのさ支部」といった常識にとらわれない奔放な名称が付けられているそうで、恐らく半田(深見)氏がそういう感性の人なのでしょう。私の身近にもいわゆるオヤジギャグを言う人はいますが、ここまでシュールな人が身近にいたら、さぞ鬱陶しかろうと思います。(あくまでも個人的な感想です。)

さて、このところ私が引っ掛かっているのは栄光ゼミナールのドア上広告で、デカデカとこのように書かれています。

お父さん、COP10ってなに?

その回答は以下のように書かれていました。

*COP10(生物多様性条約第10回締約国会議) 10月名古屋で開催


しかし、いくら何でもこれでは乱暴すぎるでしょう。この場合の「COP」は「Conference of Parties」の略で「締約国会議」という意味です。生物多様性条約だけでなく、ワシントン条約でも気候変動枠組条約でもラムサール条約でもバーゼル条約でも、締約国会議は「COP」という略称で表されます。

ワシントン条約のCOP10は1997年にジンバブエのハラレで開催されました。気候変動枠組条約のCOP10は2004年にアルゼンチンのブエノスアイレスで、ラムサール条約のCOP10は2008年に韓国のチャンウォンで開催されました。バーゼル条約はCOP9が2009年にインドネシアのバリで開催され、COP10の開催地はまだ未定だったと思いますが、2011年に開催される予定になっています。

他にも色々ありますが、「COP10ってなに?」と問われただけで「生物多様性条約第10回締約国会議」などと断定することはできません。

例えば、「フジワラってだれ?」と聞かれたとき、もしかしたら女優の藤原紀香さんのことかもしれないし、プロレスラーの藤原喜明さんのことかもしれないし、お笑いコンビのFUJIWARAのことかも知れないのに、「藤原鎌足 飛鳥時代の政治家」と勝手に断定してしまうようなものです。

単にこの広告を製作した人が「COP=生物多様性条約締約国会議」と思い込んでいたのかも知れません。が、学習塾の広告にしてこの甚だしい勘違いは何とも情けないことです。

すべてがそうだとは言いませんが、ワシントン条約にしても気候変動枠組条約にしても、この種の条約を巡っては政治的な思惑や利権が渦巻くことも多く、締約国会議がパワーゲームの舞台となることもしばしばです。殊に気候変動枠組条約の締約国会議では「CO2の排出枠」が議題の中心に据えられることが多いわけですが、視点を変えれば「化石燃料の消費枠」を縛る争いになっています。

昨今のIPCCに対する信頼低下もあり、欧米諸国では地球温暖化問題に関してトーンダウンの様相が否めなくなってきました。その一方で先般頂いたコメントにもありましたように、生物多様性条約は「生物多様性オフセット」という地球温暖化問題におけるカーボンオフセットに近似したミティゲーション・バンキングを設けるようになり、新たな金融商品として萌芽しつつあります。こうなると、他の分野でも似たような構造を作って利権を掌握してやろうと考える人が現われても不思議ではありません。

今後も人類や自然環境などにとって脅威となる可能性が指摘される問題は、それを巡って条約が制定され、締約国会議が開催され、国際的な枠組みとして様々な政策が検討されるようになるでしょう。その中には悪知恵の働く人たちがつけ込んでパワーゲームの舞台としたり、カネづるにしようとするパターンに陥ってしまうケースもあるかも知れません。

かつては軍事力を主軸として比較的解りやすい争いで済むことが多かったように思います。が、そうした争いにウンザリしている大衆を上手く丸め込むため、より巧妙な仕組みが手を変え品を変え、いくつも創作されていくことになるかも知れません。(振り込め詐欺がそうであるように、人を手玉に取ろうと思ったら「手を変え品を変え」というパターンになるものです。)

そんなものに踊らされ、私たちが納めた血税が食い物にされたり、莫迦げた要求を突きつけられるようなことが繰り返されたのではたまりません。ですから、この種の「締約国会議」が取り沙汰されるようになったら、政府やメディアが伝えることを鵜呑みにせず、様々な角度からその内容を注意深く観察していくべきです。

そういう意味でも、「COP10=生物多様性条約第10回締約国会議」などと理解しているようではハナシにならないでしょう。

日経は人に自問を促す前に自身を振り返れ

現在の日本では8月15日が太平洋戦争の「終戦の日」とされています。これは1957年に制定された「引揚者給付金等支給法」がこの日を基準としていたり、1982年に閣議決定された「戦没者を追悼し平和を祈念する日」が毎年8月15日を期日にしているといった流れとも繋がっているのでしょう。(あるいは、お盆と時期的な関係も?)

実際のところ、1945年8月15日には「玉音放送」で国民に対してポツダム宣言の受諾表明がなされただけです。大本営が停戦命令を出したのは翌16日のことですし、これに反抗した中国派遣軍や南方軍などはしばらく戦闘を続行していましたので、8月15日を以て戦争が終わったわけではありません。

一方、日本政府は連合国に対してポツダム宣言受諾を打電したのが8月10日、中立国に対しても14日にはその旨を通告しており、日本が諸外国に対して降伏の意思を示したのは8月15日より前のことです。

つまり、8月15日というのは日本政府が国民に対してその意思表示をしただけで、法的な手続きがなされていなかったばかりでなく、自軍に対する停戦命令さえも出されておらず(一説によれば、各軍の指揮官にその命令が行き渡るのにさらに2~3日要したといいます)、8月15日の段階では終戦の体をなしていなかったといっても過言ではないでしょう。

日本以外の殆どの国では国際法上の手続き、すなわち降伏文書に調印された9月2日を太平洋戦争が終結した日としています。

降伏文書への署名
降伏文書へ署名する重光外相(当時)
当時の外務大臣・重光葵と陸軍大将・梅津美治郎らが政府の全権を委任され、
東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで降伏文書に署名したのは
1945年9月2日のことで、手続き上はこれを以て戦争終結ということになります。
余談になりますが、当初用意されていたテーブルが降伏文書の目録よりも小さく、
かなりはみ出してしまう状態だったそうで、それではみっともないということで
急遽イギリス東洋艦隊のある艦艇の食堂にあった丁度良い大きさのものを借り、
この調印式のテーブルとして用いられるというハプニングが生じていました。
式が終わってそのテーブルが元の場所に片付けられた後になって、
ある兵士が「歴史的価値を帯びたテーブルを保存しなくても良いのか?」
と言いだしたときにはどのテーブルだったか解らなくなっていたようです。
捜索の結果、ある兵士が刻んだイタズラ書きが決め手となって特定され、
現在はサウスカロライナ州の海軍博物館に展示されているそうです。


その翌日に戦勝祝賀会が行われたソ連などは9月3日を「戦勝記念日」とし、現在のロシアでもそれが引き継がれているといった例外もありますが、日本以外で8月15日を記念日としている例は韓国と北朝鮮が「解放記念日」としているくらいでしょうか。要するに、太平洋戦争終結(すなわち第二次世界大戦終結)の日について、世界の常識と日本の常識には大きなズレがあるということですね。

追記:ロシアでは今年7月に法改正があり、9月2日が「大戦終結の日」と定められたそうです。やはり、法的手続がなされたこの日を以て終戦と見なすのが世界の常識というわけですね。

またぞろ前置きが長くなって恐縮ですが、今年も8月15日には各紙とも社説で太平洋戦争に因む話題を並べました。中でも個人的に気になったのは日本経済新聞のそれでした。

敗戦の教訓をいまに生かしているか

(前略)

 この歴史から学ばなくてはいけない。私たち一人ひとりが敗戦の教訓を胸に刻み、日本の進路に生かしていきたい。戦争への深い反省が欠かせないのは言うまでもないが、それは出発点にすぎないだろう。

 なぜ無謀な戦争に走ったのかを徹底的に検証し、同じ失敗を繰り返さない努力を尽くすことが必要だ。

(中略)

 当時、多くのメディアや世論が米英中などへの強硬論に拍手を送っていたことも忘れてはならない。

 ここからくみ取るべき教訓は何か。国際情勢の甘い分析と、国力をかえりみずに大風呂敷を広げた外交、国内の情緒に依拠した対外政策は、国の進路を誤るという現実だ。

(中略)

 情緒と願望に押し流され、現実を踏まえた冷徹な外交を忘れたとき、国の安定と繁栄は危うくなる。この歴史の教訓を改めて肝に銘じたい。


(C)日本経済新聞 2010年8月15日


ここに書かれていることは至極真っ当で、私としても全く以て同感なのですが、果たして日経にこんな偉そうなことが言えるのか?と思ってしまいました。それは当blogでも何度となく批判してきた彼らのエネルギー政策に関する理想論を見ていると戦前のドイツや日本を彷彿とさせるからです。

第一次世界大戦で敗れたドイツはイラク一帯に確保していた石油利権をフランスへ譲渡するハメになりました。大きな石油供給源を失ったドイツは、ナチスが政権を掌握するや化学者に対して石炭を液化する合成石油の開発を進めさせました。ヒトラー曰く「いまや石油を抜きにした経済は考えられない。政治的独立を求めるドイツは、いかなる犠牲を払ってでも石炭液化計画は続行すべきだ」と。

最盛期には需要の46%が石炭からの合成石油で賄われるようになっていましたが、石油の市場価格の4~5倍にもなる高コストゆえ、当然のように財政を逼迫させました。元京大教授でドイツ政治史の権威である野田宣雄氏は「ヒトラーが第二次大戦を始めた当初からソ連の石油を狙っていたとまでは考えられない。だが、最終的にバクー(コーカサス地方の油田地帯)が対ソ戦の目的の一つになった」と述べています。

ドイツに倣った日本も1937年6月に練炭の製造を行っていた海軍の第三燃料廠(徳山海軍燃料廠)で石炭液化政策の会議が催され、同年8月には「人造石油製造事業法」と「帝国燃料興業株式会社法」が発布されました。当時の石油輸入量400万kLの半分を石炭からの合成石油で供給する5箇年計画が立てられ、さらに7箇年計画として400万kLまで引き上げられる壮大なものに発展していきました。

これは当時の国家予算の25%にもおよぶ極めて野心的な計画でしたが、採算度外視の無謀なものでしたから、当然のように挫折することになったわけですね。莫大な国費を投じて作られた石炭液化工場が全て無駄になったのは言うまでもありません。

ドイツが開戦に踏み切った直接的な理由は野田氏の言うように石油狙いではなかったかも知れませんが、日本が開戦に踏み切った直接的な理由としてアメリカによる石油の禁輸措置が非常に大きなウエイトを占めていたのはご存じの通りです。日本もまたインドネシアなどの油田を掌握することが南方侵出の大きな目的となっていました。

その南方資源ルートからの輸送計画も第一次世界大戦時にイギリスが失った輸送船のデータをスライドさせただけの極めて杜撰なもので、現実は潜水艦などによる攻撃でことごとく打ち砕かれました。戦前には世界第3位の海運国であった日本の海上輸送力は、終戦までに95%も喪失するという有様で、戦前の机上論はあっけなく崩壊、日本本土への資源供給は破綻しました。

先のエントリや先日頂いたコメントへのリプライでも軽く触れましたが、Newsweek(日本版)の8月4日号(通巻1212号)では『世界に広がるエコ疲れ』という記事でこのように述べています。

 ドイツの太陽光発電に対する補助金制度は、おそらく世界一無駄な温暖化対策だろう。鳴り物入りで導入されたこの制度は、国民に最大1250億ドルのコストを負わせながら、国内のエネルギー需要の0.25%しか生み出さない。

 メルケル率いるキリスト教民主同盟(CDU)のある有力議員は、「ちっぽけな効果を挙げるために莫大な予算を吸い取る、われわれ自身がつくり出したモンスター」に対して、党内でも議会でも不安が高まっていると語る。


当blogの過去記事をご参照頂けば明らかなように、日経の社説はこうした太陽光発電や風力発電といった高コストの不安定電源、出力調整ができない原子力発電を推進するよう唱えてきました。彼らは需要に応じた電力の供給量をどのようにして調整するのかという肝心な部分を全く無視し、とにかく原子力や風力や太陽光を増やし、火力を減らし、エネルギー自給率を上げろと言い張っているわけです。

この恐ろしく視野の狭い推進論は、戦前のドイツや日本が夢想した石炭の液化による石油の自給率向上と同じくらい無謀なものです。また、嘘ばかり伝えた「大本営発表」と見まごうばかりの偏向報道で環境問題、殊に地球温暖化問題を伝えてきました。同じ日経でも科学面や電子版のコラムなどにはマトモな記事が何度か載りましたが、社説ではとんでもない偏向ぶりが重ねられてきました。

彼らは上掲の社説で「国際情勢の甘い分析と、国力をかえりみずに大風呂敷を広げた外交、国内の情緒に依拠した対外政策は、国の進路を誤るという現実だ」という至極真っ当なことを述べています。が、これを「電力需給に関する甘い分析と、コストをかえりみずに大風呂敷を広げた自然エネルギー利用、国内の情緒に依拠したエネルギー政策は、国の進路を誤る」と言い換えてみると、彼らがあの悲劇的な戦争から何も学んでいないのではないかと思われて仕方ありません。

「当時、多くのメディアや世論が米英中などへの強硬論に拍手を送っていたことも忘れてはならない。」とも述べていますが、これもまた私の目には「温暖化対策への強硬論に拍手を送っている」盲目的な状態を繰り返しているようにしか見えません。

今日、世界のパワーゲームの主戦場は軍事から経済へ移行しました。それに加えて環境問題もまた有力なツールとして経済と絡み合いながら、その影響力を増してきました。Newsweek誌がいうように、この不況とクライメートゲート事件などの不祥事で世界的にはシラケムードも広がりつつありますが、まだ終息したわけではありませんし、ポスト温暖化問題となるような新たなトピックも芽生えつつあります。

日経には「情緒と願望に押し流され、現実を踏まえた冷徹な」政策を「忘れたとき、国の安定と繁栄は危うくなる。この歴史の教訓を改めて肝に銘じ」自身の発した言葉を振り返ってもらいたいと思います。
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まとめ

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